隠れた名勝庭園が点在する比叡山麓を一人散策
東山を南北に貫く白川通は、京都の郊外らしい洒落たファッションストリート。この道を少し外れますと、狭い道が続き、山裾は古くから貴人、文人の隠棲の地であって落ち着いた名庭園が点在します。名庭園をめぐりますが、散策するには最適の距離です。
「一乗寺下り松バス停付近(白川通)」
JR京都駅前バスターミナルより岩倉操車場前行に乗車して「一乗寺下り松」で下車し、この交差点を左折して東へ、まずは「一乗寺下り松」へと参ります。
散策順(一乗寺下り松ー金福寺ー詩仙堂ー曼殊院門跡)
一乗寺下り松
平安時代より志賀と京を往来する旅人の目印として植え継がれてきた松で、この付近にあった一乗寺にちなんで名付けられました。(松は4代目)また江戸時代初期には宮本武蔵と吉岡一門との決闘が伝説として有名です。
直進しますと「詩仙堂」がありますが、右折して先に「金福寺」へ参ります。
金福寺 こんぷくじ
洛西にある「落柿舎」と並ぶ俳諧史跡であります「金福寺」は、平安初期の安恵僧都が創建し、もと天台宗の寺であったが、長く荒廃していたのを鉄舟和尚が再興し、現在は臨済宗南禅寺派です。松尾芭蕉・与謝蕪村にゆかりのある俳句の聖地でもあり、村山たかの終焉の寺としても知られています。
弁天堂(村山たか創建)
村山たかは、若き日井伊直弼の愛人で、直弼が江戸で大老に就任した頃、たかは京で幕府の隠密としてはたらき「安政の大獄」に加担したため、直弼が桜田門外で暗殺されると、勤王の志士に捕まり生晒しにされたが、その後尼僧になって金福寺に入り、ここで余生を送りました。
芭蕉庵と書かれている門をくぐって庭園と芭蕉庵へ参ります
庭園と小高い場所に芭蕉庵
芭蕉庵
元禄の昔、当時の草庵で閑居していた住職鉄舟を芭蕉は訪れ、語り合って親交を深めた。その後、鉄舟はそれまで無名であった庵を「芭蕉庵」と名付け芭蕉を偲んでいました。85年ほどして与謝蕪村が当寺を訪れますが、その時すでに庵は荒廃していました。芭蕉を敬慕していた蕪村は安永五年に再興しています。再興2年後に亡くなりました。
与謝蕪村 【享保元年(1716)~天明三年(1783)】は江戸時代中期の画家で俳人。国宝、重文の作品が多くあります。芭蕉庵の左手には蕪村のお墓がありますが、そばには多くの門人のお墓もあります。
蕪村筆「奥の細道画巻」(重文の複製)
芭蕉の紀行文「奥の細道」を蕪村は全文を書き、14の場面を俳画で入れた巻物で、文と画が相まって「風流洒落」の気が溢れ、みるものの心を洗ってくれます。
金福寺を後にしまして下り松までもどり、次の詩仙堂へ参ります。
詩仙堂
小有洞の門(詩仙堂入り口)
詩仙堂は徳川家の家臣であった石川丈山が“大坂夏の陣”で活躍するが、軍規違反で放遂され徳川家を離れて、寛永十八年五十九歳の時に造営し没するまで30年間ここで過ごしています。詩仙堂の名の由来は、中国の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、その絵に丈山自ら詩を書いて四方の壁に掲げた”詩仙の間”から呼ばれるようになりました。
丈山は放遂されて入洛はするが、その後紀州藩に仕官、次いで広島の浅野家にも仕えたが、また京へ舞い戻ってこの堂を造った。生涯妻帯しなかった丈山は、鷹峯の文化人や松花堂などと交流をしていた。一方で幕府の隠密であったともいわれています。いずれにしましても詩仙堂の四季は趣きあり、春は“さつき”秋は紅葉がすばらしい庭園です。
詩仙堂前のこの道から比叡山麓沿いに次の曼殊院門跡へ参ります
比叡山
曼殊院が見えてきました。
曼殊院門跡 まんしゅいんもんぜき
曼殊院門跡は最澄が比叡山に建立した天台宗寺院の五個ある門跡の一つです。門跡の意味は皇族や摂関家の子弟が代々門主となる寺院のことでして、曼殊院は数度の移転を経た後、良尚法親王により江戸時代初期の明暦二年現在地に移されました。庭園、建築ともに親王の創意によるところが多く、江戸時代の代表的書院建築で、庭園との癒合度がすばらしいと思います。
「庫裡」重文
現在の通用口で、屋根のしたの額「媚竃」は親王筆で意味は「その奥に媚びんよりは、むしろ竃に媚びよ」の意味だそうですが、理解できません。
富士の間
上之台所
上之台所とは門跡寺院の高僧や高貴な来客を接待する時だけに使用される特別な厨房のことです。良尚親王は、度々御所から多くの賓客を招き、もてなしたと伝えられています。
すばらしい庭園を鑑賞して終わります。
京の散策人
2015年8月24日