昭和と平成のカオスな都市景観が外国人も魅了する 中央区佃島、月島を歩く

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渡し船が300年も続いた佃島

今回は、中央区明石町から佃島、月島周辺を歩きます。現在ではさまざまな橋で繋がり、島というイメージはないですよね。しかし江戸時代は、隅田川の河口には佃島と石川島という二つの島がありました。

佃島は、徳川家康が関東に入国した際、今の大阪府であった摂津国佃村の漁民を招いてこの場所を下賜したらしい。漁民らは、ここを埋め立てて築島し、住んだのですな。これに対して石川島は、江戸幕府が軽罪人などの自立支援施設である人足寄場として築島したもの。ちなみに人足寄場設置を建言したのは、鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵ですよ。明治時代、石川島造船所が設立され、現在は大川端リバーシティとして高層マンションが建ち並んでいますね。

明石町から佃島へかかる佃大橋を渡ります。

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橋の下には「佃島渡船」の石碑がありました。

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佃島は、隅田川河口にできた自然の寄洲だったのですね。江戸時代、この島と対岸との間を渡し船が通っていたらしい。

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渡し船は何と、佃大橋が完成する昭和39年まで、300年間も続いたのですか。この石碑は昭和2年、無賃の曳舟渡し船になったのを機に作られたものだとか。確かに、「佃島渡船跡」とは表示されていませんものね。

佃煮発祥の地・佃島

「佃島渡船」の石碑の前にあるのが、佃島のシンボルのひとつとも言うべき天安本店。

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よくテレビや雑誌でも、佃煮の名店として紹介されていますね。創業はなんと、1837年(天保8年)。店名の由来は、初代店主「安吉さん」という名前にちなんだものらしい。佃煮とは、言うまでもなく、小魚や貝、昆布などを砂糖と醤油で甘辛く煮付けた食べ物。ごはんとの相性がバツグンで、日本人を実感できる貴重な食べ物のひとつかもしれませぬ。佃煮という名前は全国区で、どこへ行ってもありますが、ここ佃島が佃煮発祥の地なのだとか。

前に、家康が摂津国佃村の漁民をここに招いたと書きました。漁民たちは自家用として、捕った魚やアサリなどを塩や醤油で煮詰めて保存食としていたそうな。保存がきき、かつ安価な食べ物として江戸庶民に広まり、それがやがて参勤交代の武士たちによって全国に広まったそうですよ。

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天安本店ではたくさんの種類の佃煮が並んでいました。以前、ここでイナゴの佃煮を買ったことを思い出します。イナゴなんて、有名でもなかなか食べる機会はありませんからね。形さえクリアできれば、川エビみたいな感じでおいしかったです。

隅田川の眺めが素晴らしい大川端リバーシティ周辺

次に向かったのは、大川端リバーシティの下に広がる隅田川沿いの公園。

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中央区の新川と佃を結ぶ中央大橋が見えます。こんなベンチに一日座って隅田川を眺めていたら気持ちいいだろうなと思いました。

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上の高層マンションに住む人たちがうらやましい。今は知りませんが、ひと頃、一か月の家賃が100万円と聞きたのを思い出します。そういえば昔、巨人のいた頃の松井選手がここに住んでいたそうですね。

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目の前を屋形船が通り過ぎて行きます。公園の中をそぞろ歩いていたら、江戸時代の灯台が…。

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これはもちろん当時のものではなく、一種のモニュメント。リアルの石川島灯台は、慶応2年、隅田河口や品川沖航行の船の安全のために作られたらしい。六角二層の常夜灯で、これが完成したときは近くの漁師が喜んだそうですよ。

大阪から引っ越してきた住吉神社

先ほどの天安本店の近くに戻り、近くの小道を歩いて行くと鳥居がありました。

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ここは、住吉神社。1645年に、漁民たちによって佃島が築かれた翌年、彼らの故郷であった摂津国の住吉神社を勧請して建立したのですな。新しく埋め立てられて作られた土地なので、他の場所より神社仏閣が少ない印象はあります。現在も佃や月島、勝どき、晴海地区の氏神になっているそうですね。

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この鳥居の扁額は珍しい陶製なのだとか。私が注目したのは、本殿の横に建つこの煉瓦蔵。

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明治時代に作られたそうですが、いい味を出していますな。そして佃と言えば、ご存知この景観。

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いろいろな場所で同じアングルの写真や映像を見ます。佃小橋の赤い欄干と大川端リバーシティの高層ビル群。江戸の景観と平成の景観のコラボが面白いですね。タイムマシンが故障して、時間の狭間に入り混んでしまった不思議な感じでしょうか。

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佃島路地裏散策

佃島といえば、今や路地を思い浮かべる人も多いでしょうね。昭和や平成の初期にここを訪れたことがありますが、ごく普通の風景としか感じませんでした。ここへ来なくても、うちの近所に似たような場所がたくさんありましたからね。

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東京は今、どこも道路が広くなってしまって、こういう路地がある程度広く残っている場所は貴重かもしれませぬ。

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私たちが子供の頃は、こんな狭い路地で遊んだ記憶があります。騒ぎ過ぎて、大人に叱られたことも限りなくありましたし…。行ったのは日曜日でしたけど、子供が遊んでいる姿を一人も見かけないのが昔と唯一違っている点でした。

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先日、テレビを見ていたら、世界のどの都市も、こんな高層ビルと普通の民家が並ぶ景色はないとフランス人写真家が話していました。確かに、世界の有名な都市の景観は統一感がありますよね。

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彼は東京に住み、こんなカオスとも言える風景を写真集にして世界に発信しているらしい。統一感はなくても、なんか納得させられてしまう面白い景観は魅力的だそうですね。佃島の景色には、文化人類学的に何か魅かれるものがあると感じました。

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しかし、ここへ来るたびに、未来都市のエリアが増え、昭和のエリアがどんどん縮小しているのがわかります。あと少しすれば、こんな面白い景色が見られなくなるかもしれませぬ。

月島クロニクル

地下鉄月島駅がある都道473号線を越えると月島地区。月島といえば、「もんじゃ」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。月島を貫く商店街には、多くの「もんじゃ専門店」が軒を並べ、今や東京で有数の観光スポットになっていますね。

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しかし、月島はかつて、石川島造船所の下請工場など町工場が密集していたらしい。多くの人が集まったので、自然に商店街も形成されていったのですな。戦災の被害をあまり受けなかったので、戦前からの古い町並みがタイムカプセルのように残ったそうです。ところが昭和53年、石川島播磨重工業の工場が閉鎖。その後、バブル景気によって町工場の跡地はマンションに変わって行きました。

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月島商店街の中にあるレトロな交番。

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なんと、警視庁最古の現役交番なのだとか。作られたのは大正時代というから驚きです。発展を遂げて行く当時の町の様子が偲ばれる施設ですね。

隅田川を越えれば、すぐそこは銀座・築地という好立地。都心へ歩いて行くことも可能で、こちらも佃同様、未来都市化が急ピッチで進んでおりまする。

もんじゃにまつわるエトセトラ

しかし、月島には「もんじゃ」がある。

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「もんじゃ」とは奇怪なネーミングの食べ物ですが、当初は駄菓子屋で小麦粉を水で溶き、しょうゆや蜜とともに鉄板に薄くのばして焼いたものだったそうな。日本が貧乏だった時代には、子供たちにとって腹持ちのいいおやつだったのでしょうね。

子供たちは、自分で焼くとき、鉄板の上でいろいろ文字を書いて遊んだのでしょう。それが、「文字焼き」と言われるようになり、やがて訛って「もんじゃ」になったらしい。今では、肉や魚介類などさまざまな食材をトッピングして高級感が増しているような。しかし、「もんじゃ」は、未来都市の夜景を背景に、ホテルの最上階のレストランで食べるより、下町の雰囲気の中で食べるほうがおいしく感じるのではないでしょうか。

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「もんじゃ」で売り出したために、この下町情緒の残る月島は、倉敷みたいな美観地区?として残るかもしれないと思いました。

跳開橋として東洋一の規模を誇った勝鬨橋

帰りは再び隅田川を渡り、銀座まで歩こうと思いました。商店街を抜け、月島川を渡って晴海通りを右折。しばらく歩くと、古い鉄橋が…。

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このレトロだけど頑丈そうな橋は勝鬨橋。橋の長さは246メートルで、作られたのは昭和15年ですか。立派だけど、別に珍しい橋ではないと思われるかもしれませぬ。だけど、国指定の重要文化財ですよ。

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その理由は、とびきりの個性がこの橋にあるからなのですね~。なんと、勝鬨橋は真ん中の部分が別れ、最終的には「ハ」の字の形に跳ね上がるのですよ。橋が跳ねあがることで、一定の大きさの船が隅田川を航行することができるのですな。重要文化財に指定されたのは、「近代可動橋の一つの技術的到達点」にあるからなのだとか。完成した当時は、跳開橋として東洋一の規模を誇ったらしい。

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しかしその後、高度成長により自動車の交通量が増加、一方で隅田川を航行する船の数は減少して行ったとか。跳開橋としての役目を終えたのが、昭和45年。それ以後、勝鬨橋は一度も開かれたことはないそうです。

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勝鬨橋の由来として、橋が跳ねあがる形が、バンザイしているように見えるので、戦に勝利する「勝どき」のイメージからかなと思っていました。でも、調べてみると、この近くには橋ができる以前から「勝鬨の渡し」という渡し船があったらしい。それは、日露戦争の旅順陥落を機会に、有志が渡船場の設置したことに由来したものだそうですね。

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今は開かれなくなった、勝鬨橋中央のジョイント部分を確認。

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実は、私は勝鬨橋が跳ねあがる瞬間を目撃したことがあるのですよ。子供の頃ですが、車に乗っていて、次第に目の前の道路が上に上がって行くのを眺めていました。サンダーバードじゃ~と、大騒ぎしたのを覚えています。

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対岸の築地方面から勝鬨橋を眺めます。勝鬨橋は、平成の高層ビル群に存在感で負けていないですね。いつかまた、橋が跳ねあがる雄姿を、平成の若者たちに見せつけて欲しいと思いました。

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2016年2月8日

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