今のうちに行っておきたい和歌山県九度山町の「真田ミュージアム」!
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好調の大河ドラマ「真田丸」
NHKの大河ドラマ「真田丸」により、真田幸村(実名:真田信繁)ブームが起こっています。天下も取っていない幸村が、なぜこれだけ人気があるのでしょうか。
1615年、大坂夏の陣で幸村は討ち死にします。しかし、敵軍の大将だった徳川家康をあと一歩のところまで追い詰め、家康は死を覚悟しました。この時の戦いぶりから幸村は「日本一の武将」と呼ばれるようになったのです。
平和だった九度山での暮らし
幸村の本拠地は信州(現在の長野県)の上田ですが、1600年に勃発した関ケ原の戦いで豊臣方(石田三成)の西軍に就き、敗れたため東軍の大将だった家康に紀州(現在の和歌山県)の高野山への流罪を命じられます。その後まもなく幸村は父の昌幸と共に高野山の麓にある九度山で暮らすようになりました。
「戦の神」とまで謳われた幸村ですが、九度山で暮らした14年間は戦とは無縁で、いたって平穏だったようです。幸村は生活の糧として、信州で製造していた「真田紐」の作り方を九度山の人々に教えました。この真田紐は元々、ネパールから伝わったとも言われています。
しかし幸村は、収入のためだけに真田紐を作っていたのではありません。いずれ来るであろう、家康との決戦に備えるため、諸国の情報を収集する目的で真田紐の流通を行っていました。
また、信州といえば蕎麦の名産地。幸村は九度山の人たちに本格的な信州そばの作り方も教えます。この蕎麦は現在でも九度山にある「幸村庵」で味わうことができます。
「幸村庵」のざるそば。300円追加で和歌山・奈良名物の「柿の葉寿司」が付く
九度山の人々に愛された幸村
九度山での平和な暮らしを続けていた幸村ですが、1614年に転機が来ます。故・豊臣秀吉の息子である秀頼から、家康打倒に力を貸してくれ、と依頼が来ました。幸村はこの日のために、14年間も九度山で雌伏の時を送っていたのです。もちろん、秀頼の申し出に幸村は一も二もなくOKしました。
九度山を離れる時、幸村は村人を集めて大宴会を行いました。村人たちに酒を呑ませ、眠っている間に出兵しようとしたのです。そうすれば、村人たちは幸村の出兵を知らなかったことになり、家康から罰せられることもないだろう、と。
しかし、九度山の人たちは知っていました。この宴会が、幸村との永遠の別れになることを。九度山の人たちは、幸村と別れの盃を酌み交わしました。幸村は、九度山の人々から愛されていたのですね。
九度山の紀の川沿いに植えられた桜
「真田ミュージアム」が開館!
現在の九度山は「幸村特需」が生まれています。前述の蕎麦処である「幸村庵」や、幸村と昌幸が暮らしていた「真田庵」には、大勢の観光客が訪れています。
幸村が九度山での住み家としていた真田庵
その真田庵や幸村庵のすぐ近くに、今年(2016年)の3月13日から「真田ミュージアム」が開館しました。ドラマの「真田丸」ではまだ九度山は登場していないのに、凄い人出です。
入館料は大人500円、小人250円ですが、幸村像と一緒に写してくれる写真撮影のサービスがあり、幸村の半生を紹介するビデオ上映もあったりして、かなりお得感があるのではないでしょうか。
※注……基本的には館内の写真撮影はOKですが、中には撮影禁止の展示物もあります。詳しくは係員にお尋ねください。以下の写真は、許可を得てネット公開しています。
幸村の家紋である六文銭の幟が立った真田ミュージアム
関ケ原の戦いで敗れ、家康に高野山蟄居を命じられた資料
ネパールから伝えられたという「真田紐」の製作は収入のためだけではなく、諸国の情勢を探る意味もあった
大坂夏の陣で死んだはずの幸村は、実は生き残っていたという都市伝説も
幸村人気は現代まで続き、「真田ミュージアム」ではゲームも紹介されている
今のうちに九度山へ行きましょう!
ドラマ「真田丸」での九度山は、2016年4月現在ではまだ登場していないのに、筆者が行った時は近くの駐車場は満車、少し離れた所にある「道の駅・柿の郷くどやま」は広大な駐車場を備えているにもかかわらず満車でした。さらに離れた所に臨時駐車場があったので事なきを得ましたが、「真田丸」に九度山が登場すると、ますます大フィーバーとなるでしょう。
特に戦が行われたわけでもないのに、九度山のこの人気。大河ドラマに九度山が登場する前に、九度山に行かれることをお勧めします。
なお「真田ミュージアム」は来年(2017年)の2月28日まで公開される予定です。
2016年4月12日