「卑弥呼以前」の弥生時代へご案内。大阪の池上・曽根遺跡
謎に満ちた弥生時代
学校で日本史を習う場合、大抵は縄文時代から始まるでしょう。狩猟生活を送っていた縄文時代から、やがて中国大陸よりもたらされた稲作文化が花開いた弥生時代に移行しました。紀元前3世紀頃、今から約2300年前だと言われています。
稲作が広まった弥生時代は、食料を安定供給できるようになって人口が急増し、ムラと呼ばれる共同体が生まれました。貧富の差が生まれ、財産を背景に権力を手に入れた者は首長となり、ムラ同士の戦争も頻発しました。やがて強いムラは他のムラを滅ぼして巨大となり、クニと呼ばれる強力な組織に変貌していったのです。
しかし、これらのことについてはっきりしたことはわかりません。当時の日本にはまだ文字文化が無かったからです。発掘された遺跡を調査し、想像するしかありません。
弥生時代後期に登場した邪馬台国
やがて紀元前から西暦になり(もちろん、当時の日本にはそんな概念はなかったのですが)、弥生時代の後期、2~3世紀頃に強大なクニが誕生しました。卑弥呼が女王として君臨していた邪馬台国です。
文字文化が無かったのにどうして女王の名前までわかるのかというと、当時の中国が日本について書いた「魏志倭人伝」に載っているからです。ただし、場所については距離と方角の辻褄が合わないため長い間、謎とされてきました。そして有力とされているのが北九州説と畿内説です。
畿内=邪馬台国の元になった?池上・曽根遺跡
邪馬台国が畿内にあったとすれば、その場所は現在の奈良県桜井市付近だと考えられていますが、同じ畿内に弥生時代の遺跡があります。それが大阪府南部の和泉市と泉大津市に跨る池上・曽根遺跡です。
この遺跡に使われたヒノキ柱を鑑定したところ、邪馬台国より遥か前の弥生時代中期、紀元前52年であるということがわかりました。ちなみにヨーロッパではユリウス・カエサル(シーザー)が活躍していた時代で、この8年後に「ブルータス、お前もか!」と叫んで生涯を閉じました。
池上・曽根遺跡は第二阪和道路(国道26号線)という交通量の多い幹線道路沿いにあります。こんな街なかに突然、弥生時代の遺跡公園が現れるのは、いささか場違いな感すらあります。かなり広い公園になっており、弥生時代の環濠集落が復元されています。なお、入場は無料です。
池上・曽根遺跡の配置図
公園に入ってまず目に付くのが「いずみの高殿」と呼ばれる高床建物です。弥生時代としては最大級の建物で、二階が神の宿る神聖な部屋、一階が人の集まるスペースだったと考えられています。
「いずみの高殿」の前には「やよいの大井戸」があります。直径2.3mのクスノキをくり抜いており、くり抜き井戸としては日本最大です。
「いずみの高殿」「やよいの大井戸」の前は「祭祀(まつり)の場」となっており、その名のとおり祭りが行われていたのでしょう。これは当時の中国からの影響だと言われています。
弥生時代最大級の建物「いずみの高殿」。その前にあるのが「やよいの大井戸」
「いずみの高殿」の二階内部
「祭祀の場」の南側には「生産の場」と呼ばれる工房群があります。ここで最先端技術の金属器などが造られていたと考えられています。
弥生時代の工場
「生産の場」から浅い谷を隔てて、弥生人が住んでいた竪穴式住居があります。当時は工房地区と住居地区が分けられていたのでしょう。
竪穴式住居
邪馬台国が登場するのは、この時代から約200~300年後です。池上・曽根遺跡が邪馬台国にどう繋がるのか、あるいは全く関係ないのかわかりません。しかし、謎があるからこそ、壮大なロマンを感じられるとも言えます。
博物館も隣接
公園内には池上曽根弥生情報館や池上曽根弥生学習館といった入場無料の施設があります。また、ちょっと離れた所には有料ですが大阪府立弥生文化博物館もあります。
池上・曽根遺跡は先述したように第二阪和道路に隣接しているし、無料駐車場もあるので、車での来場が便利です。
鉄道利用の場合は、JR阪和線の信太山駅から西へ徒歩約7分です。
さあ、あなたも「卑弥呼以前」の弥生時代を体験してみませんか?
2016年6月17日