卑弥呼の墓が奈良にある?ここが邪馬台国か、纏向遺跡
日本史最大の謎
弥生時代の後期、2~3世紀頃に邪馬台国があったのはご存知でしょう。以前ご紹介した池上・曽根遺跡よりも約300年後の時代です。邪馬台国が滅亡した後に弥生時代が終わり、ヤマト王権(原大和国家)の古墳時代を迎えました。
邪馬台国が登場するのは中国の史書「魏志倭人伝」ですが、239年に邪馬台国の女王だった卑弥呼が中国の魏に遣使し、魏の明帝により「親魏倭王」の称号を受けた、と記されています。
ところが問題は邪馬台国の場所です。魏志倭人伝の記述通りだとすると、邪馬台国は日本の遥か南の太平洋上になってしまいます。そこで、距離が間違っていたとする北九州説と、方角に誤りがあったとする畿内説が唱えられたのです。江戸時代から続くこの大論争は、未だに結論が出ていません。
しかし近年になって、畿内説が有力視されるようになってきました。奈良県北中部の桜井市近辺にある纏向(まきむく)遺跡が、邪馬台国の時代と符合するという研究結果が出たのです。
奈良県桜井市の纏向遺跡周辺。ここに邪馬台国があった?
纏向遺跡に潜入
纏向遺跡はJR桜井線(万葉まほろば線)の巻向駅近くにあります。といっても、池上・曽根遺跡のように整備された公園ではありません。田んぼや民家がある広大な土地に、古墳などが点在しているだけです。
まず目に付くのが前方後円墳の箸墓古墳です。宮内庁からは「大市墓」と指定され、第7代・考霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とされていますが、この古墳こそが卑弥呼の墓ではないかという説があります。
考霊天皇の実在性そのものが疑問視されているので、決して夢物語ではありません。実際に、気の早い(?)人が箸墓古墳の傍に「卑弥呼の庭」という工房を開いています。
卑弥呼の墓かも知れない箸墓古墳
箸墓古墳の畔にある「卑弥呼の庭」。勝手に決めつけちゃっていいのかな(笑)
さらに箸墓古墳から北西の方向には、纏向勝山古墳があります。埋葬者は不明ですが、卑弥呼の父親の墓ではないかという説があります。纏向勝山古墳の近くには纏向石塚古墳や纏向矢塚古墳もあり、この辺りに強大な国家があったことは間違いありません。
もしここに邪馬台国があったとしたら、古墳時代より前の弥生時代から大きな古墳があったことになります。邪馬台国は、弥生時代と古墳時代を繋ぐミッシングリンクのような存在だったのでしょうか。
卑弥呼の父親の墓?纏向勝山古墳
邪馬台国から天皇の時代へ
魏志倭人伝では、卑弥呼の死後に邪馬台国の女王となった台与(とよ)が、266年に晋の武帝に遣使朝貢したとされていますが、それ以降は日本に関する記述が忽然と姿を消してしまいます。当時の日本には文字文化がなかったので、その後については全くわかりません。
巻向駅から北へ1駅、天理市の柳本駅の近くには崇神天皇陵があります。第10代天皇ですが、それより前の天皇は実在しないというのが定説で、そう考えると崇神天皇が実在した初代天皇となります。実際に、初代天皇は神武天皇とされていますが、神武天皇と崇神天皇は同一人物ではないか、という説もあります。
箸墓古墳が卑弥呼の墓だとすれば、すぐ近くに初代天皇の墓があるので、邪馬台国がヤマト王権の源になったという可能性が高くなります。もちろんこれは仮説であり、北九州説を唱える人には納得できないと思われるので、そう簡単に結論付けるわけにはいきませんが。
第10代天皇、実は初代天皇?の崇神天皇陵
邪馬台国ロマンを散歩
纏向遺跡が邪馬台国だったという確証はありませんが、想像の世界は楽しいものです。纏向遺跡の周辺を散歩してみませんか?この地に卑弥呼が生きていたんだ、と思うと、ただの田舎風景がとてつもなく壮大なロマンを感じるものです。
纏向遺跡についてもっと詳しく知りたければ、桜井市立埋蔵文化財センターに行ってみるといいでしょう。纏向遺跡に関する出土品などが多く展示されています。ただし、確定はしていないので邪馬台国については触れられていませんが。
入館料は大人200円、小人100円で、場所は巻向駅より南へ1駅の三輪駅近くにあります。
桜井市立埋蔵文化財センター
関東方面から来られる方は、夜行バスを利用すると安くて便利です。新宿―奈良・五條線に乗ると、新宿を出発して桜井駅北口で降りれば、JR桜井線(万葉まほろば線)で各種「邪馬台国」スポットに行くことができます。
詳しい夜行バスの運賃やダイヤはバスサガスで検索してください。
2016年6月27日