100年を超える高校野球史、その発祥の地!豊中グラウンド跡地
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今年で101年目となる高校野球
夏の高校野球、地方大会もたけなわですね。第98回目となる今年(2016年)は、8月7日から阪神甲子園球場で全国大会が行われます。
夏の高校野球が行われる阪神甲子園球場
戦争で中断がありましたが、全国高等学校野球選手権大会が始まって今年で101年目となります。つまり1世紀を超えたわけですね。
では101年前、即ち第1回大会はどんな様子だったのでしょうか。
甲子園はまだ無かった!?
夏の高校野球の第1回大会が開催されたのは1915年(大正4年)のことです。しかしその頃はまだ、甲子園球場は存在しませんでした。
大阪府の北西部、豊中村(現:豊中市)にあった豊中グラウンドで、第1回全国中等学校優勝野球大会が行われたのです。当時は高校野球ではなく、中等野球と呼ばれていました。現在とは学制が違っていたわけですね。
豊中グラウンド跡地は現在、高校野球メモリアルパークとなっています。
豊中グラウンド跡地のレリーフがある、高校野球メモリアルパーク
高校野球第1号ホームランは、ヘビやカエルがアシスト!?
第1回大会は全国で73校が参加、地方大会を勝ち抜いた10校が豊中グラウンドに集いました。今年は3874校が参加、甲子園出場校は49校ですから、随分規模が小さかったのですね。
中等野球の第1回大会開催を知らせる、朝日新聞の社告(高校野球メモリアルパークより)
記念すべき第1試合は、鳥取中(現:鳥取西)と広島中(現:広島国泰寺)の対戦でした。この試合で高校野球第1号ホームランが飛び出したのです。
広島中の四番打者、中村隆元選手が打った打球はセンター後方へ。球が転々と転がっていくと、草むらに入ってしまいました。豊中グラウンドは整備されておらず、草がぼうぼうだったのです。
鳥取中のセンターが球を探していると、そこら中からヘビやカエルが出て来て、センターの選手はビックリ仰天。センターが腰を抜かしている間に中村選手がホームイン、ランニング・ホームランとなったのです(試合は14-7で鳥取中が勝利)。
惜しかった”白河の関越え”
第1回大会決勝は、京都二中(現:鳥羽)と秋田中(現:秋田)の対戦となりました。試合は大熱戦となり、延長13回で京都二中が2-1でサヨナラ勝ち、高校野球最初の優勝校となったのです。
第1回大会優勝校、京都二中のメンバー(高校野球メモリアルパークより)
惜しかったのは秋田中でした。選手は僅か11人、そのうち1人は父親から「大阪まで野球をしに行くとは何事か!」と大反対されて不参加。時代を感じさせるエピソードですね。
そしてもう1人は大会中に怪我をしたために、決勝戦は実質9人で戦わざるを得ませんでした。それでも延長13回の死闘を演じたのは立派の一言です。
でも、もしこの時に秋田中が勝っていれば……、少なくとも”白河の関越え”が21世紀の現在まで続く東北勢の悲願にはならなかったでしょう。未だに東北勢の優勝はなく(春を含む)、優勝旗が白河の関を越えたことがないのです(北海道勢の優勝はあります)。
高校サッカーと高校ラグビーの発祥の地でもあった豊中グラウンド
しかし、豊中グラウンドでは第2回大会までしか行われませんでした。理由は前述したように外野は草ぼうぼう、しかも外野フェンスなど無く縄1本を張っただけのお粗末なグラウンドだったのに加えて、中等野球人気が高まったにもかかわらず400人程度しか収容できなかったので、使用を諦めたのです。そして第3回大会からは、兵庫県の鳴尾球場で行われるようになりました。
でも、中等野球が行われなくなった1918年(大正7年)、豊中グラウンドで第1回日本フートボール優勝大会が開催されました。サッカー大会とラグビー大会が同時に行われ、これが現在の全国高等学校サッカー選手権大会と、全国高等学校ラグビーフットボール大会の前身です。つまり豊中グラウンドは、三大高校スポーツの発祥の地でもあるわけですね。
現在は取り壊された国立競技場では高校サッカーが行われていたが、元祖は豊中グラウンド
しかし、それも長くは続かず、兵庫県に宝塚球場が新設されると同大会はそちらに移し、1922年(大正11年)に豊中グラウンドは閉鎖。完成したのは1913年(大正2年)ですから、僅か9年の短命でした。
高校野球メモリアルパークへのアクセス
豊中グラウンド跡地へは、阪急宝塚線の豊中駅から西へ徒歩約10分の所にあります。赤レンガが目印となりますが、目立つようなものではないので見つけにくいかも知れません。
甲子園へ行った際、あるいは関西旅行と共に、高校野球発祥の地を散策するのもいいでしょう。
2016年7月26日