夏・甲子園。高校野球の季節がやって来た!~前編

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

夢の楽園

高校野球における甲子園とは、プロ野球で使用される甲子園とは全く違う、春と夏に突然現れる夢のような場所だ

と言ったのは、かつて高校野球とプロ野球で、阪神甲子園球場を舞台に大活躍した江川卓投手です。つまり、高校野球とプロ野球では同じ甲子園でも、全く別の球場になるという意味です。

さらに、同じ高校野球でも春と夏とでは全然雰囲気が違います。要するに甲子園とは、プレーしている選手や観客、季節によって、千差万別に姿を変える球場なのです。ここを理解しないと、甲子園という球場の特殊性は解けません。

夏の甲子園開会式、入場行進を行う選手たち
DSCF1579

甲子園が生まれた経緯

夏の高校野球、即ち全国高等学校野球選手権大会が始まったのは今(2016年)から101年前、1915年(大正4年)のことです。学制の関係により当時の名称は全国中等学校優勝野球大会で、中等野球と呼ばれていましたが、第1回大会は豊中グラウンドで行われました。しかし、あまりにお粗末なグラウンドだったため、第3回大会からは鳴尾球場に会場を移しましたが、それでも当時の中等野球人気に対応できませんでした。

そこで、アメリカのメジャー・リーグ球場に匹敵する、本格的な球場建設を決めたのです。そして生まれたのが甲子園球場でした。現在の兵庫県西宮市に位置する球場です。

甲子園完成当時、日本には本格的な球場なんて無かった
DSCF2690

たった1枚の図面から設計

1924年(大正13年)の第10回大会では、鳴尾球場に代わる新球場での開催が決まっていましたが、新球場建設を担当する阪神電気鉄道にはなす術がありませんでした。何しろ、当時の日本には本格的な野球場なんて無かったのです。

幸い駐米社員が、ニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)の本拠地だったポロ・グラウンズ(現在は閉鎖)の図面を持ち帰りました。その図面を参考に、球場建設に関してはド素人だった入社2年目の野田誠三(後の阪神電鉄社長。野球殿堂入り)が新球場設計を担当したのです。

本格的な球場なんて見たことがない野田は、阪神電鉄の専務だった三崎省三に「球場視察のため、渡米させてください」と懇願しましたが、三崎は許しませんでした。現在のように飛行機でアメリカへ行ける時代ではなく、船での渡航だったので第10回大会までに時間が無かったのです。

やむなく野田は、手探り状態で新球場を設計せざるを得ませんでした。しかしそれが、アメリカでも類を見ない、後世まで残る歴史的な球場となったのです。アメリカの真似をしなかったことで、日本独特の球場となったのかも知れません。

図面1枚から設計された甲子園球場
DSCF6012(2)

甲子(きのえね)の年に生まれた球場

第10回大会が始まる5ヵ月前、新球場が起工しました。事実上は4ヵ月半で完成させなければならない突貫工事です。しかも、当時は動力機械など無い時代で、牛を使ってグラウンドを造るしかありませんでした。

幸い、新球場予定地は河川跡だったので、セメントの材料となる砂やジャリには事欠きませんでした。また当時は、周りがキツネやタヌキの住む雑木林だったため、騒音を気にせず昼夜を通しての工事が可能だったのです。しかも、阪神電鉄の架線から電気を取れたので、夜でも明かりを灯せました。

こうして8月1日、遂に新球場が誕生しました。この年は1924年、中国・十干の最初の年である「甲(きのえ)」に当たり、さらに十二支の最初の年「子(ね・ねずみ)」という、60年に1度の最初の年「甲子(きのえね)」になることから、新球場は「甲子園」と名付けられました。

なお、甲子園は野球のみならずラグビーやサッカーなどのフットボールも行う多目的スタジアムとして誕生したので、当時の正式名称は甲子園大運動場となっています。

現在でもアメリカン・フットボールの大学王座決定戦「甲子園ボウル」が行われる甲子園球場
DSCF5595

規格外の大球場

新しく出来た甲子園は、まさしく驚天動地の球場でした。狭かった豊中グラウンドや鳴尾球場では様々なグラウンド・ルールがありましたが、広い甲子園ではグラウンド・ルールは一切なし。ボールがいくら転がっていてもオール・フリーです。グラウンド・ルールなしに、選手たちは戸惑いました。

さらに、僅か8段の木造スタンドだった鳴尾球場に対し、甲子園は内野席が50段の鉄筋コンクリート。収容人員5万人という、東洋一の大球場です。数千人もの客が集まれば超満員になる鳴尾球場と違って、甲子園は1万人入ってもガラガラに見えるような状態でした。

この球場が満員になるのは、10年はかかるんとちゃうか

と言われていたのです。

ところが、大会第4日には、地元の有力校が出場するとあって、早くも満員通知が出ました。甲子園という新球場の物珍しさも手伝ったのでしょうが、中等野球人気の底力が当時からあったのでしょう。

結局、阪神電鉄が社運を賭けた事業は大成功を収めました。

(つづく)

球場前が人でいっぱいになる、現在の夏の甲子園
DSCF6009(2)

2016年8月2日

カテゴリー

  • ディズニー夜行バスバスツアー
  • USJ 夜行バスツアー
  • 八戸観光

RSS

follow us in feedly

Copyright © AirTrip Corp. All Rights Reserved.