江戸・明治の有名人ゆかりの庭園と時代小説・相撲ファン必見の深川散策 東京・江東区を歩く
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江戸時代の不動信仰を今に伝える深川不動堂
今回行ったのは、東京都江東区深川周辺。深川といえば、藤沢周平や宮部みゆき、宇江佐真理などの時代小説の舞台としてよく登場しますね。
ちなみに深川一帯は、江戸時代初期、富岡八幡宮の門前町として発達したのだとか。明暦の大火の後に木場が置かれ、深川岡場所が作られて花街にもなったらしい。個人的には若い頃、取引先回りで町中歩き回った思い出があります。十年以上もご無沙汰していましたが、久しぶりに近くへ来たので歩いてみることにしました。
ウォーキングのスタートは、地下鉄東西線の門前仲町駅。永代通りを木場方面に向けてテクテク歩いていくと、立派な赤い門がありました。門には、成田山の文字が…。
ここは、「成田山 東京別院 深川不動堂」。成田山はもちろん千葉にありますが、東京別院とあるから、会社で言うと東京支店みたいなものでしょうか。
江戸初期、市川団十郎が不動明王の登場する芝居を行ったところその演目が大ヒット。江戸っ子に成田山の不動明王を拝観したいというニーズが高まったらしい。そこで、ここ深川で「秘宝展」が何度も開催されたとか。
深川の人たちの不動信仰はその後も生き続け、明治11年、現在の場所に成田不動の分霊を祀って、作られたのがここ「深川不動堂」なのですな。成田山新勝寺の門前町は有名ですが、こちらも短いながら由緒ありそうな店が並んでおりまする。
まず、お参りしようと思ったら、昔と境内の雰囲気が変わっていたのに驚きます。古い建物は昔のままですが、背後にモダンなお堂が出来ている。これまでの古い建物は旧本堂になり、新しいほうが新本堂ですか。
それではと、旧本堂からお参りします。こちらは、平成23年まで本堂だったのですね。実はこの本堂は、太平洋戦争で焼失し、千葉県印旛沼の近くにあった龍腹寺の地蔵堂を昭和26年に移築したらしい。現在は江東区の最古の木造建築と言われているそうな。
深川不動堂新本堂は見どころがいっぱい
成田山新勝寺は、エンタメ感満載のスポットですが、さすがその東京別院の新本堂や内仏殿も見どころ満載でした。こう言っては何ですが、中高年のディズニーランドのイメージでしたね。
とくに、内仏殿二階の四国八十八カ所巡拝所は薄暗くて荘厳な雰囲気。四国八十八カ所の霊場の砂が納められており、趣向を凝らした演出で、手軽に四国遍路体験ができるところがグッド。
また四階には、日本画家・中島千波による日本最大級の格天井画「大日如来蓮池図」は圧巻の迫力でした。撮影禁止でしたので、写真でお伝えできないのが残念。
深川発展の元となった富岡八幡宮
深川不動堂の隣にあるのが、富岡八幡宮。
「深川八幡」とも言われ、解説板によれば、1624年、僧長盛が神託により砂州であった当地を干拓して創建したらしい。その後、当社の周囲に門前町が作られ、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地としても発展していったのですか。
こちらの社殿も、関東大震災や太平洋戦争の空襲などで大きな被害を受けたらしい。現在の社殿は、鉄筋コンクリートで昭和31年に造営されたもの。竜宮城みたいな美しいフォルムですね。
神社の社殿といえば、古い木造建築をイメージしてしまいがちですが、現在、渋い色になっている神社も、創建当時はこんな感じでピカピカに輝いていたのでしょう。
日本一の大神輿がある
富岡八幡宮の境内にも、さまざまな興味深いアイテムかありました。まず目についたのには、このお神輿。
写真ではなかなか大きさが実感できないかもしれませんが、日本最大と言われているそうな。
高さは4.4メートル、重さは4.5トンもあるらしい。大きくて重いだけではなく、豪華さも兼ね備えているのですか。随所に純金・宝石が散りばめられ、神輿の最上部の鳳凰や中段の狛犬の目はなんと、ダイヤモンドですよ。
この神社には、江戸時代に紀伊国屋文左衛門が寄進した3基の神輿があったそうな。しかし、関東大震災の折に焼失してしまったのですか。以後、長く宮神輿はなかったのですが、ようやく、平成3年に奉納されたのだとか。ところが、この神輿は大き過ぎて担ぐ事が出来ないということで、平成9年に二宮御輿が作られ、祭りの際担がれる様になったらしい。それでも高さが3.3メートル、重量が2トンもあるのですか。
境内には、力持碑もあり、古の怒涛の怪力たちが持ち上げた巨石もありました。
力石といい、巨大神輿といい、力持ちがトレンドになっていたのか、と…。
大相撲ファン必見の石碑がある
富岡八幡神社で忘れてはいけないのは、相撲関係のアイテムが境内にたくさんあることですね。ここはもともと、江戸勧進相撲の発祥の地としても知られ、しばしば境内で本場所が開催されたとか。
江戸時代、相撲は、幕府や大名家の保護を受けてきたそうですが、明治維新後はそれらが無くなり、生き残りを図るため、神道との関わりを目指したらしい。そう言えば、今も神社の境内に土俵が作られているところが少なくありませぬ。
富岡八幡は、上記の経緯から特に相撲との結びつきが強く、現在も新横綱誕生のおりには奉納土俵入りが行われるとのこと。境内の相撲にまつわる石碑の中で存在感があるのが、この横綱碑。
歴代の横綱と強豪大関雷電爲右エ門を顕彰するもので、明治33年に完成。縦3メートル50センチ、厚さ1メートル、重さ20トンの白御影石で、裏面に歴代の横綱の名前が並んでおりまする。
ただ、全部埋まってしまったので、私が現役時代を知っている横綱は隣の副碑に刻銘されていました。それぞれの横綱の名前一人ひとりに、当時の思い出が浮かんできてノスタルジックな気分になりました。特に、大ファンだった元横綱千代の富士が亡くなられたのはショックです。謹んでご冥福をお祈りいたします。
外人力士もいいけれど、やはり日本人力士の名前がここに刻銘されて欲しい。来場所は是非、稀勢の里が優勝して横綱に昇進してもらいたいっす。
横綱とくれば、大関力士碑もあるのですな。こちらも、懐かしい名前がたくさん並んでいました。
ほかにも、巨人力士身長碑や巨人力士手形・足形碑、強豪関脇力士碑など、大相撲の力士のトリビアが満載ですよ。大相撲ファンは是非、お出かけを。
江戸時代と明治時代の有名人ゆかりの清澄庭園
清澄通りをひたすら北上して次に向かったのは、清澄庭園。
この庭園の来歴は、なかなかすごいですよ。江戸時代の中期には、豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられ、その後、下総関宿藩主・久世氏の下屋敷になったらしい。
そして、明治に入ると、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取って庭園の造成を行ったとか。さらに明治の中頃には、三菱の社長を継いだ岩崎弥之助が手を加えて現在の庭園の形が完成したのですか。
庭園は、池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園で、東京都指定名勝に指定されておりまする。
中に入ってまず目に入るのが、この大泉水。三つの中島を配した広い池で、水面に島や数寄屋造りの建物、木々の形を映し出す景色が秀逸ですな。
そして、園内のほとんどどこからも見られるのがこの涼亭。
明治42年に建てられた数寄屋造りの建物で、東京都選定歴史的建造物に選定されているとか。
池のほとりを歩いていくと、庭園でもっとも高く大きな築山が目に入ります。
これは富士山を模して作られたらしい。パンフには、以前、この築山の山頂近くには樹木を植えず、サツキやその他のツツジ類の灌木類を横一列に配して、富士山にたなびく雲を表現したと書かれておりました。
園内には、岩崎家が全国から集めたという名石が多数あることも忘れてはなりませぬ。
これらの石は、三菱の汽船を用いて全国の産地から集めたらしい。石のファンからは、きっとすべてお宝に見えるのでしょうね。
池の端に石を点々と置いて、そこを歩けるようにした趣向は「磯渡り」と呼ばれるのだとか。歩を進めるたびに景観が変化するように配慮されているそうですね。
景色に見とれていたら、池に落ちそうになったので、行かれる方はくれぐれもご注意ください。
この池は、鯉や亀にエサを与えても大丈夫なところもうれしいですね。
それにしても、鯉がすごくポジティブで、私も見習わねばと思うのでした。
2016年8月3日