マイルドな鉢形城とワイルドな花園城、戦国時代の二つの城跡を体感する旅 埼玉県寄居町を歩く
後北条氏の北関東支配の拠点・鉢形城
今回行ったのは埼玉県の寄居町。ずっと昔、ハイキングで訪れた場所ですが、テレビで戦国時代の城跡・鉢形城が整備されたのを知ったのですよ。昔から、鉢形城の存在は知っていましたが、ついでに訪れる場所といった雰囲気でした。たとえば、麻婆丼にセットでついてくる小ラーメンみたいな。
ところがネットで調べてみると、小ラーメンどころか、みそラーメンの大盛りにコーンやチャーシュー、煮卵、野菜などをトッピングしたような一品に生まれ変わったらしい。これは行くしかないですな。…と言うことで、東武東上線寄居駅にやって来ました。
ここから徒歩20分ほどで鉢形城へ行くことができるのですね。市街地をテクテク歩くと、やがて荒川が目の前に現れます。ゆったり流れる下流と違って、流れの速さと野趣あふれる景色はさすが上流。鉢形城はこの荒川の急峻な崖の上にあるのですな。
荒川に架かる橋の上から水面を眺めると、川底までしっかり見通すことができました。
橋を渡った右手には小公園みたいなエリアが…。この土塁で囲まれたエリアはもちろん城内の郭です。しかも、関東の戦国時代の城としては珍しい石垣もあるではないですか。
もちろんその後の城の石垣に比べれば見劣りがしますが、いろいろ試行錯誤しながら城の防御を考えた跡がわかって興味深い。もちろん関東の戦国時代の城と言えば土塁が定番ですが、鉢形城の土塁は高く、複雑な形でこちらも感心してしまいました。
土塁を上ると広々とした郭があり、本丸跡の石碑がありました。それにしても、いきなり本丸へ到達してしまうとはズルした気分。玄関を入ったとたんにリビングだったら、落ち着かない気分になりますよ。
もっとも戦国時代は、荒川に橋なんか架かっていませんでしたからね。攻める側は、急流の荒川を渡り、垂直ともいえる急峻な岩の崖を上って攻撃する必要がありました。当然、守る側は黙って見ているわけではなく、鉄砲や矢、石つぶてを雨あられと降り注ぐ…。本来は一番攻めにくい場所だったのですな。
鉢形城は後北条氏の城として有名ですが、最初に築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春らしい。その後、北条氏3代の北条氏康小田原の四男・北条氏邦が入城し、現在の巨大城郭に整備拡張されたのですな。鉢形城は、後北条氏の上野国支配の拠点となった城で、武田信玄や上杉謙信からも攻撃を受けたことがあるのですか。戦国最強の二人の攻撃から守ったということで、当時の鉢形城の難攻不落ぶりがうかがえますね。
しかし、1590年になると、豊臣秀吉による小田原攻めがはじまります。鉢形城は前田利家や上杉景勝、徳川家らの連合軍三万五千人包囲され、約1か月の籠城戦の末開城したのでした。
戦国時代の城跡がイメージできる関東屈指の史跡
城内の至る所に「鉢形城跡曲輪配置図」があるので、城の構造をまず確認します。これだけ広いと、自分がどの場所にいるのかわかりませんからね。
配置図によると、鉢形城は荒川と深沢川という二つの河川の断崖に囲まれた天然の要害にあるのがわかります。断崖に囲まれた南・北と東部にある本郭は堅固ですが、西側は開けた土地でやや守るのが難しい構造になっているらしい。大阪の陣で、大阪城の弱点とされた南側みたいな感じでしょうか。そこで、真田信繁が真田丸を築くのですが、鉢形城もいろいろ弱点補強の工夫がなされているみたい。
本郭防衛のために、二の曲輪や三の曲輪、外曲輪、諏訪曲輪などのさまざまな曲輪を作り、それぞれに深い堀切を設けたのですな。
頭に入れた曲輪配置図に沿って、まずは遠くにある外曲輪から歩きます。土塁に囲まれた広い空間があり、さすが北条氏康の息子の城の威容が感じられました。
本廓防衛の最重要拠点の二の曲輪の空堀は深くて広い。それでも当時は、もっと深かったのでしょうね。
秩父曲輪と言われる三の曲輪には、門や庭園、石積土塁が復元されていました。ここは重臣・秩父孫次郎が守ったと伝えられ、曲輪ごとに部将が定められ管理をまかされたらしい。
石積土塁や庭園は立派ですが、当時はこんな掘立建物だったのですね。重臣の館はもう少し大きいのだと思いますが、当時の城はこんな質素建物が並んでいたようで。
ちゃんと排水設備もあったのですな。
主要な出入口には方形の馬出を備えて守りを厳重に、かつスムーズに出撃するようにも作られていました。城の外側は周囲の小河川を利用して、水堀もあったそうですよ。
これだけ広い城跡があると、当時の城とは関係ない天守閣を作って観光スポットにしようとしがちですが、こちらは極力余計なものは作らないところがいいですね。でも、当時の城跡をイメージするにはやはり当時の建物を復元して欲しいと思いました。滅んでしまった城なので、忠実に再現するのは難しいかもしれませんが…。
鉢形城跡は国の史跡に指定されていますが、平成18年には日本100名城の18番に選定されたらしいですね。
落ち葉に包まれた難攻不落の要塞・花園城
鉢形城跡を出て八高線の踏切を越え、再び荒川を渡って郊外の道をひたすら歩くこと約1時間。ようやく国道140号から秩父鉄道の線路越しに小ぶりな山を見上げる場所にやってきました。
いや~長かった、疲れた~と思ったのですが、まさかそのときはそれをはるかに上回る苦行が待っているとは思わなかったのでした。
ネットで、この城を訪れた人たちが素晴らしい遺構が残っていると称賛する反面、道の険しさや藪のすごさを指摘していたのは知っていました。戦国時代の山城なので、少しくらいは当然かと…。
ところが城跡の下に立ってみると、目の前に想像を絶する苦難の道が待っているのが実感できました。まず、どこから登っていいかわからない。
しかも、登り口と思える部分は全部枯葉で覆われている。行ったときは城跡の表示板すらない。でも、多くの先人たちが訪れて本丸の写真をアップしているので、どこか突破口はあるはず、と…。
そのとき、ある城好きの先人が、「南麓にある神社の後ろの崖から取りつき、頑張って上に登って竪堀を見つけたら、そこを這い上がるしかない」という文章を思い出しました。
よし、突撃~!!と叫びつつ、枯葉にまみれた崖をよじ登ります。何度も転倒しながら、ようやく花園城の竪堀と思われる部分の下にたどり着きました。見上げると、一直線に溝が100メートルくらい続いていて、そこにはどっさり枯葉が積もっているではありませんか。
そこから30分間は、私の城跡訪問の経験でもっとも過酷な時間でしたね。左右は、高さ2~3メールの崖、溝の幅は5メートルくらいですかね。下はどっさりと枯葉が堆積しているのです。しかも、枯葉がなくても登るのは困難を極める急こう配。蟻地獄の底みたいな感じで、つかまる物が何もありませぬ。
膝のところまで枯葉で埋まりながら登るのですが、枯葉の油分が染み出しているのか、ツルツル滑ってなかなか上に登れない。しかも、10メートル登ったかと思うと、ヅルヅル5メートルすべり落ちる状態。悠長に写真なぞ、撮る気持ちにはなりませぬ。
半分くらい登ったらところで、足を滑らせて仰向けに倒れたら、体全体が完全に落ち葉に埋まってしまいました。そして、そのままズルズルと落ち葉の中を滑り落ちること数メートル。
正直、泣きたくなりましたが、戦国時代の武者たちだったら、上から矢が飛んできますからね。今のところ、上に注意を払わず、登るだけでいいのだと言い聞かせで再チャレンジしました。
竪堀を登りながら崖の上を見ると、段々畑のように郭が配置されているのがわかりました。汗びっしょりで、しかも全身に落ち葉を纏い、オズの魔法使いの案山子のような姿になりながら、ようやく竪堀の最上部に到達。そこから、崖の上によじ登るのが大変でしたが、ようやく城の主郭に這い上がることができました。
花園城にも石垣と言いますが、石積みになっている部分があるのですね。
この城が作られた年代はわからないそうですが、平安時代末期にこの地方を支配した藤田政行によって築かれたそうな。その後は、藤田氏がずっとここの城主となり、山内上杉氏に属したあと、小田原の後北条氏の支配下にあったらしい。
登るルートは困難を極めましたが、意外と頂上付近は人の手が入っている気配はありました。ただ、戦国時代の城跡を攻めることの難しさを嫌というほど味わいましたね。
でも、城跡の難攻不落さを味わえば味わうほどうれしくなるのが城好きの性。全身、汗と疲労と落ち葉でクタクタになりながらも、ワハハハハハという高笑いが、静まり切った荒城にとどろき渡るのでした。
2016年8月26日