新東名高速を使って「長篠の戦い」の激戦地を訪問
歴史の教科書にも出てくる「長篠の戦い」は、現在の愛知県新城市あたり一帯が激戦地。今は民家が点在するのどかな風景が見られますが、当時は武田軍の騎馬隊と、織田・徳川軍の鉄砲隊が死闘を繰り広げた場所です。2016年2月に新東名高速の愛知県区間が開通し、新城市内に「長篠設楽原PA」が開設されました。PAからは戦場となった設楽原が一望でき、織田信長の本陣が目の前に見えます。今回は、アクセスが飛躍的によくなった新城市を訪れ、「長篠の戦い」の激戦地となった現場を訪ねてみましょう。
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新東名高速・長篠設楽原PA
東京方面から名古屋方面に向かう下り線で、愛知県に入り最初のパーキングエリアが「長篠設楽原PA」。このパーキングエリアは上り線と下り線で特徴が分かれています。上り線は武田軍、下り線は織田・徳川軍をテーマに作られています。
下り線はパーキングエリアから織田信長の本陣まで遊歩道が作られており、遊歩道沿いには織田・徳川軍勝利の決め手となった馬防柵が再現されています。
本陣は標高134mの茶臼山の頂上に置かれており、設楽原が一望できたと言われています。また、茶臼山頂上には信長が詠んだとされる歌碑が立っています。
数多くの鉄砲が展示してある「設楽原歴史資料館」
パーキングエリアからは織田信長の本陣跡しか見ることはできませんので、お時間がある方や、本格的に「長篠の戦い」について知りたい方は、新東名の新城インターで降りましょう。インターから数分で到着する「設楽原歴史資料館」はぜひ訪れてほしい資料館です。
館内には数多くの鉄砲の展示があります。「長篠の戦い」は以前は教科書などにも「鉄砲の三段撃ち」という記載がありました。現在では、実際に本当に三段撃ちが行われたかどうか定かではないだけでなく、火縄銃を一定の間隔で撃つことは困難であり、三段撃ちのような連続した一斉射撃は不可能であったと言われています。三段撃ちの真偽はともかく、「長篠の戦い」では数多くの鉄砲が使われたことは事実で、織田・徳川軍はその多くの鉄砲を有効に使って勝利したと思われます。
(設楽原歴史資料館 展示資料)
展示品の中には明治時代の西南戦争で使われた最大級の大鉄砲や、日本最古の火縄銃などの展示もあります。
(設楽原歴史資料館 展示資料)
各武将の本陣めぐり
資料館の外では「長篠の戦い」について解説してくれるボランティアさんがいらっしゃいます。また、設楽原の地図もありますので、各武将がどこに陣を置いていたかがよくわかります。資料館からそれほど遠くはありませんので、武田勝頼と徳川家康の本陣を訪れてみることにします。
武田勝頼は戦地東の医王寺に陣をとりました。本堂の裏山にある医王寺山砦からは、長篠城を包囲する武田軍の様子が一望できたとされます。
徳川家康は弾正山・八剱神社に本陣を置きます。ここはまさに最前線の地であり、すぐ近くには家康自ら陣頭指揮をとったと言われる家康物見塚もります。
織田・徳川軍勝利の決め手となった「馬防柵」
「長篠の戦い」では織田・徳川軍の鉄砲による攻撃が有名ですが、勝敗を決定づけたのは圧倒的な兵士の数と、徹底的な防備だったとされています。もちろん鉄砲はこの戦いに欠かすことはできないのですが、バリケードの役割をした「馬防柵(ばぼうさく)」が勝利の決め手となりました。馬や兵士の侵入を阻止するのはもちろん、柵の手前には堀を作り、柵にたどり着くのを困難にしました。さらに柵の背後には土塁を築き、敵からの攻撃から身を守れるようにしてあります。この徹底的に守られた柵の背後から鉄砲で狙うという戦法で、圧倒的な勝利を得ました。
激戦地であるこの現場は当時は湿地で、大きな樹木などありませんでした。この馬防柵に使われている丸太は、信長が岐阜から一本一本運ばせたと言われています。このあたりからも鉄砲の攻撃だけでなく徹底的な防備も考えられていることがわかります。こちらの復元された馬防柵の丸太はとてもきれいですが、信長が作らせた馬防柵の丸太からは枝がいくつも突き出ていたとされ、あえて枝を落とさず有刺鉄線がわりに利用したのではないかと言われています。
「長篠の戦い」は正式には「長篠設楽原の戦い」と呼ばれます。この激戦地となった場所が「設楽原」と呼ばれており、長篠城があった場所とは少し離れているため、「長篠設楽原の戦い」と呼ぶのがふさわしいとされています。
新東名高速の開通で、今までなかなか訪れにくかった長篠の地に多くの観光客が来るようになりました。また、数多くの遺構が残されており、歴史好きな方も満足できる戦地の一つです。お時間がない方は「長篠設楽原PA」のご利用だけでも楽しんでいただけます。ぜひ、日本の歴史を変える一つの戦いとなった「長篠設楽原」の地を訪れてみてください。
2016年8月29日