石神井川沿いの個性的な公園、歴史スポットを巡る旅 東京都北区を歩く

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「王子」の地名の由来になった王子神社

今回行ったのは、東京都北区と板橋区。両区を流れる石神井川は、以前ご紹介したように、上流には石神井城や練馬城などの城跡もありまする。下流も、なかなか興味深い歴史スポットがたくさんあるのですよ。

…ということで、ウォーキングのスタートは、JR京浜東北線王子駅。改札を出ると、すぐ近くに石神井川がありました。この辺りはかつて音無川と呼ばれ、当時の渓谷美を再現した公園があるそうな。

それはまた後で訪れることにして、まず向かったのは王子神社。音無橋から本郷通りに出て、区役所方面に少し歩くと、立派な鳥居が目に飛び込んできます。

参道の奥に、権現造の立派な社殿がありました。創建年代は不明だそうですが、源義家が奥州征伐の際に祈願を行ったと伝えられるそうな。

解説板には、1322年に、当時の領主であった豊島氏が紀州熊野三社から王子大神を勧請し、若一王子宮と称されたと書かれていました。この地が「王子」と呼ばれるようになったのは、それが由来とのこと。

江戸時代には幕府の庇護を受け、明治になると東京十社に選ばれた都内屈指の由緒ある神社なのですね。

戦争で当時の建物や太田道灌ゆかりのシイの古木などが失われてしまったのが少し残念でした。ただ、音無川を見下ろす崖の上に、当時の面影を残すものとして、東京都の天然記念物に指定された「王子神社のイチョウ」があります。

幹回りは5.2メートル、高さは24メートルもあるそうで、豊島氏が領主であった時代に植えられたと伝えられているらしい。

「日本の都市公園100選」にも選ばれている音無親水公園

イチョウの大木の場所からは、音無親水公園へと続く、なかなか良い雰囲気の階段があります。そこを降りて、音無親水公園へ。

音無親水公園は、昭和63年に石神井川を整備して作られた公園。手作り郷土賞を受賞し、「日本の都市公園100選」にも選ばれているそうですね。

現在の石神井川は、音無橋から先は暗渠になって飛鳥山公園やJRの線路の下を流れて行きます。ただ、音無橋付近は、昔の流路が残っていて、そこを利用して音無親水公園が作られたのだとか。

音無川と呼ばれていた頃は、桜や紅葉の観光地だったそうですが、今も桜の名所として春には多くの人たちが訪れているそうです。

階段を下りて、せせらぎの横に作られた遊歩道を歩きます。城好きからすると、石垣に囲まれた堀の底を歩く感じに心が躍ります。

レトロな橋も、城っぽかったりして…。この橋は昭和33年の台風で流された橋を復元したものらしい。

さらに行くと、川の上流の野趣あふれた景観も堪能することができました。なんと、滝まであるのですか。

かつての「王子七滝」のひとつである「権現の滝」を再現したものだとか。音無橋の下のエリアは、洞窟みたいで、昔行ったことのある山口県の秋芳洞をイメージしてしまいました。

重要文化財の赤レンガの建物が見える醸造試験所跡地公園

音無橋の階段を上ると、近くに醸造試験所跡地公園の標識を発見。

面白そうだったので行ってみたら、原っぱの向こうに古い赤レンガ造りの建物が見えます。

これは、明治37年に旧大蔵省醸造試験所として設置された建物の一部。今も現役で、酒類総合研究所が使用しているのだとか。

醸造に関する唯一の国立研究機関として日本酒造りの近代化と酒類産業の発展に貢献したことで、つい最近(平成26年)、国の重要文化財(建造物)に指定されたらしい。

横浜の赤レンガ倉庫に似ていると思ったら、同じ設計者の妻木頼黄(よりなか)によって作られたのですか。ちなみに、こちらのほうが先に作られたそうですよ。ほかにも、現在は神奈川県立歴史博物館になっている横浜正金銀行本店も手掛けたらしい。

赤ちゃん寺にある江戸時代の探検家の石像

再び石神井川の近くに戻り、ここからは石神井川遊歩道を上流に向けて歩いて行きます。しばらく行くと、「赤ちゃん寺入り口」の標識が…。

住宅街の中を歩いて向かうと、竜宮城のような門がありました。

このお寺の正式名称は、正受院。水子や赤ちゃん供養のお寺で、供養塔にはおもちゃが並べられていました。

本堂の正面左に、小さな石像があるのが目に留まります。

解説板を読むと、江戸後期の探検家・近藤重蔵の甲冑像なのだとか。近藤重蔵は、幕府の命令で現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検、現地の開発に尽力した人。

石像が甲冑なのは、これを着て探検したからだそうですね。こんな重いものを着て探検に行くとは驚きですが、戦に行く感覚だったのでしょうか。ちなみに晩年は、こちらの寺の隣に住んで、余生を送ったそうです。

本格的なミニ吊り橋がある音無さくら緑地

再び、川沿いの遊歩道にもどります。こちらの遊歩道沿いには八つの緑地があり、樹木や野鳥をたくさん見ることができました。

音無さくら緑地は、その中のひとつで、約15メートルの吊り橋がシンボルですね。

Uの文字を時計回りに45度傾けた形の緑地ですが、これは石神井川の旧川を利用して作られたからみたい。自然の川岸が残され、ヘアピンカーブの先端では古い地層を見ることができました。

城跡や源頼朝などの伝承が残る金剛寺

再び石神井川遊歩道に戻り、紅葉橋のたもとにある金剛寺にお参りします。このお寺は、紅葉寺とも言われるそうですが、それは、8代将軍吉宗がこの辺りにもみじを植栽したからだとか。残念ながら、今はほとんど残っていないそうな。

お寺の門前には、源頼朝の布陣伝承地の解説板があります。それによれば、石橋山の合戦で敗れた鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は、一旦安房へ退き、体制を建て直してこの地に陣を敷いたらしい。そして、ここから鎌倉を目指したと書かれていました。当時、この辺りは松橋と呼ばれていて、頼朝は、石神井川河岸の洞窟に祀られた弘法大師作といわれる弁財天に祈願したと言われています。

それはともかく、私がもっとも興味を覚えたのは、この辺りにお城があったという伝承。それは、戦国時代に豊島氏の一族・滝野川氏の居館であった滝野川城。その後、滝野川氏は豊島氏と同じく、扇谷上杉家の武将・太田道灌に攻撃され滅亡してしまいます。

23区内の城跡とは貴重ですよね。しかし、残念ながら土塁や空堀のようなものはまったく残っていないらしい。城好きとしては、そう言われても草の根分けても探したくなりまする。

街中を必死に歩き回ってみたのですが、確実に城跡だと思える痕跡は皆無でした。あえて言えば、お寺の隣にある音無もみじ緑地の高低差ですかね。

当然、石神井川を天然の堀として活用したでしょうから、この急峻な崖はもっとも有効な城の防御施設であったはず。

現在は、すり鉢状になっていますが、これは増水時には水が流れ込み、魚の逃げ場所も兼ねているのだとか。前に述べた、松橋弁財天洞窟跡の解説板も高台にありました。たぶんこの近くの崖に、洞窟があったのでしょうね。

こうして写真に撮ると、護岸工事で固められたコンクリートが石垣に見えなくもない。やはり、ここは城跡なのだと実感しました。

2016年12月14日

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