東京の下町情緒と歴史・文化に触れる旅 東京都荒川区を歩く
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都電の駅名に残る三ノ輪橋
今回行ったのは、東京都荒川区。例の都営まるごときっぷを使って、お得に都内の観光を楽しもうか、と思ったのですよ。すると、行く場所は、地下鉄や都電、日暮里舎人ライナーが一緒に利用できる場所がベターかもしれませぬ。
…ということで、都電荒川線の終点のひとつ、三ノ輪橋駅へやってきました。この辺りは、昭和の雰囲気が残っていて、オヤジとしては心が安らぎます。
近くの日光街道に出ると、何やら解説板が…。
今は国道になっていますが、昔はここに大きな橋があったらしい。そういえば、都電の駅名は三ノ輪橋なのでした。都内は川が暗渠になっているケースが多いから、地名や駅名から昔の景色を推理するしかありませぬ。
解説板には、三ノ輪橋は、石神井川の支流として、王子から分流した音無川が、現在の日光街道と交差するところに設けられた橋である。橋の長さは約10メートル、幅は約6メートルあったと書かれていました。
2万人の遊女が葬られているという投げ込み寺
日光街道から道一本入ったところにあるのが浄閑寺(じょうかんじ)。
1655年の創建で、別名「投げ込み寺」と言われておりまする。意味深なネーミングですが、お寺の解説板には、安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際、この寺に投げ込んで葬ったことによると書かれていました。そういえば、このお寺の近くには有名な吉原遊廓があったのでしたね。
本堂は、近代的なコンクリート造りになっていましたが、裏に回ると新吉原総霊塔があり、当時の投げ込み寺の雰囲気か伝わってきます。
ちなみに、この慰霊塔には、関東大震災や東京大空襲で死んだ遊女も祀られているらしい。ここに葬られている遊女は2万人に及ぶのですか。
塔の下には、花又花酔の「生まれては苦界、死しては浄閑寺」の句が刻まれていました。永井荷風は、しばしばこの寺に訪れ、遊女たちの死を悼んでいたそうですね。墓地には、永井荷風の文学碑もありました。
昭和の商店街の雰囲気に浸れるジョイフル三ノ輪
投込寺・浄閑寺を出て、三ノ輪橋駅に戻ると、駅前に巨大なアーケードの入り口が目に入ります。ここが、ジョイフル三ノ輪。
下町の商店街なのですが、他の商店街と違うのは大手のチェーン店が少ないところでしょうか。今はどの商店街へ行っても、同じような看板ばかり並んでいる感じを受けます。こちらの商店街はオリジナルの小売店や飲食店がいっぱい。
価格もリーズナブルで、自分が子供の頃の商店街に迷い込んだ気分になりました。
明治時代の官営工場のレトロな煉瓦塀がある
ジョイフル三ノ輪から住宅街に入り、細い路地を伝いながら北上します。昔ながらの銭湯や商店など、ここでも昭和の町を歩いているような気分に浸ることができますね。
千住間道を渡ってしばらく歩くと、スーパーマーケット・ライフの横に古いレンガ塀が…。
ここにも解説板がありますな。どれどれと立ち止まって読むと、このレンガ塀は、明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所(せいじゅうしょ)の敷地を取り囲んでいた東側の塀だとありました。
近代的な建物とレトロなレンガ塀が、なぜかマッチしているような。
建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されるらしい。それにしても、よく塀だけ残ったものだと思いました。普通は、建物と同時に取り壊されますよね。よほど頑丈だったのか、あるいはデザイン的に壊すのがもったいなかったのか。
解説板にもありますが、千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設らしい。大正時代には、敷地面積は3万2406坪あったというから、とてつもない広さの工場だったのですね。ほかにも巨大な紡績工場があり、この一帯は一大工業地帯だったのでしょう。
1200年以上の歴史がある素盞雄神社
旧千住製絨所煉瓦塀のすぐ近くにあるのが、素盞雄神社。
地元では天王様と呼ばれているそうで、1200年以上の歴史があるのですか。ちなみに、荒川区内で最も広い地域を氏子圏とする神社だそうな。
境内には、立派な富士塚がありました。
富士塚に祀られているのが「瑞光石(ずいこうせき)」。解説板には、素盞雄神社の祭神が翁に姿を変えて降臨した奇岩と言われているとありました。
当時は、門前の茶店ではお土産として、疫病除けの麦わらの蛇が売られるなど、富士参りの参詣者で賑わったらしいですね。
リーズナブルでお得感のある荒川ふるさと文化館
素盞雄神社の隣にあるのが、荒川文化センター。
中には、荒川区内で発掘された遺跡や土器、中世の板碑、近世の町や農村の暮らし、銭座の作業風景、昭和41年頃の復元家屋などが展示されている「荒川ふるさと文化館」があります。
以前入ったことがあるので、今回はパスしましたが、観覧料100円とリーズナブルな割には展示が充実していた記憶があります。
存在感のある大岩とすごい水量の滝が魅力の天王公園
荒川文化センターから少し歩いたところにあるのが、天王公園。
ここは江戸時代、現在の栃木県の大名だった米倉氏の下屋敷だったそうな。これは、解説板がないとわからないのですね。
行った日は真夏の暑い日でした。公園の中央の大岩から、すごい水量の滝があり、子供たちの歓声が響いています。それにしても、この水しぶきに入って滝行をしたら、心が清らかになりそう。
流れ落ちた水は、せせらぎとなって公園内を巡っているのですな。せせらぎの中で遊んでいる子供もたくさんおりました。夏場は、大人も一緒になって楽しめそうですね。
下町のフィールド・オブ・ドリームス・東京球場があった
天王公園から、荒川工業高校と区営南千住野球場の脇を通って次の目的地へ向かいます。その途中、また煉瓦塀が…。
今度の煉瓦塀は結構長いですな。先ほど見たスーパーの横の煉瓦塀が千住製絨所の東側の煉瓦塀なら、これは西側の塀ですかね。改めて、工場の広さを実感しました。
そういえばここは、東京スタジアムがあった場所だと思い出します。現在の千葉ロッテマリーンズの前身にあたる毎日大映オリオンズが本拠地として使用していたのですね。
ただ、毎日大映という球団名は記憶になくて、当時の新聞で、東京オリオンズと言う名前があったのをおぼろげながら覚えています。東京球場と載っていたような。
子供の頃の見た選手名は、なぜかよく覚えていますね。東京オリオンズなら、ファーストの榎本喜八、キャッチャーは醍醐、外野手のアルトマン、ピッチャーはやっぱり小山、成田の両エース。有藤が大型三塁手として入団した頃は、ロッテに変わったときでしょうか。
余談ですが、当時のパリーグは人気がなくて、子供の頃行った後楽園の西鉄x東映戦は観客が3000人でした。あまりにもすいているので、外野席は無料だった日もあります。こちらの球場も採算の悪化で、昭和47年限りで閉鎖され、昭和52年に解体されたのですね。
今、もし残っていたら、この辺りの雰囲気もガラッと変わっていただろうと思うのでした。
2016年12月16日