船橋の歴史ある神社と戦国時代の古城を巡る旅 千葉県船橋市
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神話の時代から続く船橋大神宮
今回行ったのは、千葉県船橋市。以前もご紹介したことがありましたが、それは市川市と接する部分。今回は、JR船橋駅近くの市の中心部分を歩きます。
ウォーキングのスタートは京成本線の大神宮下駅。大きな神社が近くにありそうな駅名ですが、事実この近くに千葉県屈指の古社があるのでした。
それは、船橋大神宮。
大神宮とはすごいですが、正式名称は、意富比神社(おおひじんじゃ)と言うらしい。ふりがながないと、絶対読めませんね。ネーミングだけでも、古代から続く由緒ある神社だとイメージできます。
意富比(おおひ)の由来については、さまざまな説があるのだそうな。「おおひ」を「大火」あるいは「大炊」と呼んで食物の神様だとする説、「夕日」とみる説、「大日」と呼んで太陽神だとする説など。あと、古代の有力豪族である意富氏の氏神という説もあるそうですね。
これだけ説が分かれることからも、古代の神秘を感じてしまいますな。神社のホームページによると、日本武尊の東征の折に、当地で東国平定の成就を祈願したのが始まりと伝えられているそうですね。
行った日は、七五三なのか、多くの家族連れが参拝に訪れていました。
境内には、船橋の東照宮と言われる神社もある
境内の一画に、日光の東照宮みたいに豪華絢爛な社殿がありました。
ここは、常盤神社。日本武尊とともに徳川家康・秀忠が祀られており、徳川家康によって建立されたと言われているそうな。
それにしては、新築されたみたいにピカピカですな。実は、2015年の家康公四百年祭に伴って、漆塗り極彩色の社殿・唐門へ建て替えられたそうです。
神社の境内に灯台がある
常盤神社の鳥居横の小高い丘の上に、面白い形の建物がありました。木造の民家の上に望楼が載っていると言いますか。
これは、船橋大神宮灯明台。いわゆる昔の灯台ですね。3階建てで、高さは12メートルほどあるとか。
どうして、こんな町中に灯台があるの、と思いましたが、昔はこの辺りまで海が迫っていたらしい。設置されたのが明治13年ですか。明治28年に停止するまで、「政府公認の民設灯台」として活躍していたそうですよ。
船橋というネーミングの由来とは
大神宮の本殿の横の石段を下り、大神宮下の交差点から次の目的地を目指します。
大通りを歩いていたら、小さな川のほとりに解説板を見つけました。
それによると、この川は、海老川と言い、現在より川幅が広く、水量も多かったため、橋を渡すのが困難だったと書かれています。そこで、川に小さな舟を数珠つなぎに並べて上に板を渡し、橋の代わりにしたのですな。なんと、そこから「船橋」という名がついたのですか。
今や船橋といえば東京近郊の大都会として飛ぶ鳥落とす勢いですね。そのネーミングの由来となった場所がわかって得した気分になりました。
船橋には徳川家康の御殿があった
大通りを歩いていると、それに並行して、商店が並ぶ細い道が続いています。この道を御殿通りと言うらしい。それでは、御殿はどこと探してみても、民家や古い商店が並ぶばかり。どこにも御殿などありませぬ。
実は、このあたり一帯には江戸時代初期に徳川家康が鷹狩に出かける際の御殿があったのだそうな。今はまったく面影は残っていませんが、住宅街の中にポツンと小さな社が残っていました。
ここは東照宮というらしいですが、こんなミニ東照宮もあるのですね。解説板によれば、船橋御殿は慶長19年(1614)に家康が東金で鷹狩を行なった時に構築された御殿らしい。
家康が船橋御殿に宿泊したのは一度だそうですが、二代将軍秀忠も船橋御殿を利用したと考えられているそうな。秀忠と聞いて、真田丸の星野源をイメージしてしまいました。
船橋の城で唯一城主の名が分かっていると言われる夏見城
JR船橋駅の南口からそのまま構内の下を通り北口へ出ます。そのまま駅前の大通りを北上すると、左手にあるのが天沼弁天池公園。
噴水を眺めつつさらに北上し、北口十字路で右折。市場通りを進んで海老川にぶつかったところで左折します。ここからが、本日のメインイベント、船橋の古城めぐりの開始じゃ、と心が躍りました。
まず向かったのは、船橋駅から比較的近い夏見城。城と言っても、戦国時代の遺構なので、天守や櫓、石垣などは残っておりませぬ。土の凸凹や高低差から城跡を推定するしかないですな。バス通りを歩いていると、左手に小高い丘が続いており、城跡が近いぞと実感できました。
夏見城は、戦国時代の他の城と同じく、舌状台地の先端に築かれした城。現在は、長福寺というお寺の境内が城跡なのですね。
長福寺は坂道の頂上付近に山門が設けられていました。さてと、付近を歩き回ってみたのですが、高低差以外、確たる城跡の痕跡がありませぬ。
強いていえば、道を隔てた稲荷神社にあるこの隆起ですかね。でも、これは浅間大社の石碑にあるように、江戸時代に作られた富士塚かも。
富士塚とこの花壇の隆起がつながれば、土塁なのかもしれませんが…。あまり、自信を持って主張できませぬ。
ネットで調べてみると、夏見城は、戦国時代に夏見政芳という武将の居城だったらしい。政芳は長福寺を再興した人物で、船橋にある城の中で唯一、城主が明らかなのだとか。
450年前なんて、日本の歴史から見たらそんなに古い過去ではないと思います。後世に名前を残したいなら、未来に残る文献に記載される必要があるのでしょうね。ちなみに、夏目城は、永禄年間(1558~69)に攻められて城主の夏見政芳は討死したのですか。
城跡の痕跡がわからなかったので、後ろ髪をひかれる思いで、お寺の下に広がる崖の写真を撮ったのでした。
ただ、家に戻ってから再度ネットで確認したら、墓地の奥に立派な土塁が残っているとわかりました。その写真が何枚も城めぐりの先人たちのホームページに記載されているではないですか。まだまだ、城好きとしては修業が足りないと思い知らされたのでした。
ヘリが魅力の米ヶ崎城
海老川を越え、米ヶ崎町に入ってさらに歩いていくと、また左手に高台が見えてきました。…と言っても、民家の後ろの少し高くなった部分ですが…。
今度こそ、城跡の痕跡を確認するぞとリベンジに燃えるのでした。回り込んで、高台に上ると、そこは広々とした畑が広がっていました。
昔は、たぶんこの畑のどこかに空堀があったのでしょうね。今度も無理かもと思って、高台のへりに向かって歩いていくと、見つけました、城の痕跡を。
これは明らかに、城の土塁ですよね。しかも、かなり良い状態で残っておりまする。今でも相当の高さがあり、下からこれを乗り越えて侵入するのはかなりの努力を必要としますよ。
ブラタモリの中で、タモリが言っているように、「土地はへりが大事なのですよ」という言葉がフラッシュバックするのでした。
2017年4月18日