戦国と近世の城郭の魅力が満載! 今なお残る北条時代の遺構を楽しむ小田原町歩き
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大盛況の北条五代祭り
本日は、小田原シリーズの最終回。戦国小田原城のあとは近世の小田原城の魅力にズームインしてみたいと思いまする。まずは、箱根口の門跡から、小田原城址公園へ。
行った日はなんと、北条五代祭りの真っ最中。武者隊や鼓笛楽隊が市内を練り歩くらしい。ちなみに、北条早雲役が柳沢慎吾で、武者隊先導役が合田雅史だそうな。早雲はキャラが違うでしょと思いましたが、柳沢慎吾は小田原ふるさと大使だそうですね。
パレードの様子を一目見ようと思い、お堀端を歩いて行くと次第に観客が増えて行きまする。お堀端通りの三の丸小学校前では、ついに身動きできない状態になってしまいました。やはり小田原の人たちは、北条氏が好きなのかも。
パレードも、誰が歩いているのかまったくわからない。旗指物だけが、目の前を通り過ぎて行きます。北条氏が小田原を支配していた頃も、小田原の町人たちは、こんな感じで武者が通り過ぎるのを眺めていたのかもしれないと思いました。
ちなみに、パレード隊列は、吹奏楽隊、先導役音楽隊、武者隊先駆け軍団のあと、北条軍団の順で進むみたい。北条軍団は、初代早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直にそれぞれの人が扮しているそうな。私がもし扮するなら初代早雲もいいけれど、三代氏康をやってみたいです。
北条氏康は、上杉謙信や武田信玄とほぼ同時代の戦国大名。ただ、謙信や信玄と比べれば知名度はイマイチかも。ただ、彼の戦略や治世の手腕は決して負けておりませぬ。いや、むしろ、バランス的には謙信や信玄を凌駕していたかもしれないのですよ。
今日における彼の低めの評価は、秀吉の小田原征伐による北条氏の降伏という不名誉な結末になってしまったことが影響しているのかも。
二宮金次郎ゆかりの神社がある
パレードは見たいけれど、武者たちを見ることができないので、仕方なく無念の撤退を余儀なくされることに。再び、箱根口門跡に引き返し、比較的すいている報徳二宮神社の境内から城址公園に攻め入ることにしました。
報徳二宮神社の境内は、北条氏によって作られた古い曲輪の跡だそうですね。そこは、二つの堀に両側から囲まれた細長い平垣地で、江戸時代は、小田原城の火薬庫があったそうな。当時は、雷曲輪を呼ばれていたらしい。
それはさておき、報徳二宮神社は、かつて学校の校庭でよくお目にかかった二宮金次郎を祭った神社。そういえば、二宮金次郎は小田原藩領の出身でしたね。小田原藩の家老や小田原藩の分家、その後天領の財政再建に腕を振るったと聞いたことがあります。
北条時代の城の風景が残っている場所も
しっかりお参りをしてから、いよいよ本丸へ向かって進軍を開始します。途中にあるこの堀。
北条時代の堀の跡なのだとか。石垣を用いない戦国時代の堀の原型をよく留めているらしい。堀の幅は、20メートル以上もあるのですか。前回来たときは、澱んだ水の池みたいに見え、神社の心字池かと思ったのですよ。解説板には、底には北条氏の堀特有の障子堀の一部を残していますと書かれていました。ちなみに、障子掘は、敵兵が堀の中での移動を阻害する施設。
関東地方の他の城にも北条氏が関連した城では障子掘をよく見かけますね。近世の小田原城が、北条時代の小田原城の上に建設されているのがもっとも特徴的に表れている部分ですな。
近くにある郷土文化館が無料で入れるというので、行ってみることにしました。発掘資料や民俗資料など、よくある展示物が所蔵されていましたが、私が興味を持ったのはやはり小田原城の資料。とくに、北条時代の小田原城の縄張りは興味深かったっす。
城内にあるパワースポットの大木
以前から比べれば小田原城の城内も整備され、今でも関東の城の中では横綱クラスの見所が満載です。近年復元された銅門をまたじっくり見たかったのですが、残念ながら北条五代祭りのイベントで立ち入り禁止になっていました。
いつもはだだっ広い二の丸広場も、今日は屋台が建ち並んで縁日のような賑わいが…。
小田原城のシンボルの一つにもなっているのが、この「イヌマキの木」。
樹高約20メートル、幹周りが4.5メートルもあり、最近はパワースポットとしても知られているらしい。幹がねじみたいにグルグルとねじあがっていて、存在感がありますね。
歴史ファンなら知っている真田丸のトリビア
イヌマキの木のすぐ近くにあるのが、歴史見聞館。
ホームページによれば、小田原城の始まりから現在に至るまで、小田原北条氏の歴史を、模型、音声、映像などで分かりやすく説明しているのだとか。ただ、この小田原城の模型は、たぶん江戸時代のもので北条時代ではないですよね。土塁と空堀の模型はインパクトがないからかもしれませんが…。
ほかには、本物そっくりの人形が軍議をするミニシアターなどが面白かったです。それにしても、初代早雲から二代氏綱、三代氏康の評価に比べれば、滅亡にかかわった四代氏政、五代氏直の評価が低いのは致し方ないところ。
現在の真田丸でも、高嶋政伸演じる北条氏政がかなりキモい人物に描かれているような。ちなみに、彼の登場シーンで、飯を食べていて、そこに汁をかけている場面を覚えている方も多いのではないでしょうか。
実はそれは、かつて三代氏康と氏政が一緒に食事をしていて、氏政が何度もご飯に汁をかけて食べているのを嘆いた故事から来ているのですよ。
父親としては、自分の飯の量を見れば、かける汁の量も一度でわかるではないか、と…。こんな計画性のない息子なら、北条家のいずれ滅びるだろうと予言したのですな。史実は明らかではありませんが、有名なエピソードですね。ネットで調べてみたら、やはりその通りだと番組のホームページで紹介されていました。
もっとも、氏政と氏直の時代に、北条氏の勢力は最大になるのですが…。豊臣の力を侮ったと言われていますが、それなら伊達政宗も島津氏も似たような立場ですよ。違うのは、関東と東北、九州との勢力範囲の違いと言いますか。この場合の北条氏の不幸は、近畿からわりと近い関東に大勢力を持っていたことかもしれませぬ。
リニューアルされた小田原城・天守閣
能書きはさておき、 赤い常盤木橋を渡り、いよいよ小田原城の本丸へ。
今は菖蒲園になっていますが、かつてここには幅20メートル近くある堀になっていて、本丸を守っていたらしい。橋を渡り、石段を上ると昭和45年に復元された常盤木門。
さすが江戸幕府の関東前線基地としての威容が感じられました。巨大な枡形虎口に入ると、四方から鉄砲や矢が飛んでくるような感覚にみまわれて背筋が寒くなりますな。
本丸に上がると、リニューアルされたばかりの巨大な天守閣が圧倒的な迫力で目に飛び込んできます。
江戸時代もこれと同じ大きさだったのでしょうか。当時の人たちは、東京タワーや六本木ヒルズを見上げるような感覚で眺めたのだろうと思いました。
江戸時代初期には、三大将軍家光がこの天守閣に登り、眺望を楽しんだという記録が残っているらしい。いきなり天守閣の内部へ入るのではなく、石垣の急階段を登って入り口に到達するのが特徴的かも。登るとき、視界が広がって、ワクワクするような高揚感を当時の人たちも感じたのでしょうね。
ただ、行った日は北条五代祭りとともに、リニューアルされたばかりで多くの観光客が行列を作っておりました。天守閣に入るのに30分待ちですと…。
いつもは並ぶのが嫌いでパスするのですが、美しい天守閣を眺めながら待っていたので全然苦になりませんでした。内部の展示も、グラフィックによる説明やシアターなど、よりわかりやすくなったのがいいですね。
そして、いよいよ小田原城の最上階からの眺望ですよ。
あいにくの曇り空でしたが、相模湾や箱根の絶景を堪能できました。
あそこに見える台地は、もしかして八幡山古郭ですかね。今回は行けませんでしたが、次回は是非訪れてみたいっす。
小田原は、城と町が共存している
城内を通って、水堀を渡り、幸田門跡へ。
戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時に激闘がここで繰り広げられたそうですね。確かに平地で、居館があったといわれる場所までもうあと少し…。
謙信も、信玄も、あと一歩まで攻めたものの落とせなかったというのが実感できました。幸田門跡から続くスペースに、土塁が残っている。
ここは、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡だそうですね。
さきほどの早川口遺構の土塁は、住宅街の中にありましたが、こちらの土塁は完璧に市内中心部。
土塁の上を歩くと、ビルで働いている人たちを窓ガラス越しに眺めることもできます。やはり小田原は城と町とが見事に共存しているのですな。
小田原の歓楽街の中にある北条家当主だった人のお墓
そして最後に向かったのは、北条氏政・氏照の墓。北条氏政は、北条氏第4代の当主。氏照は、氏政の弟で八王子をはじめ5つの城主だった存在。当然、由緒正しい寺院の墓地の奥にひっそりと、というイメージでしたが、小田原駅から程近い歓楽街の一画にあったのは少々驚きました。
二人は、小田原落城の後、城主氏直は高野山に追放され、父氏政、その弟氏照の両人は責任を負って自刃したのですね。遺骸は北条氏の氏寺であった伝心庵に埋葬されたらしい。
江戸時代になって伝心庵は移され、その跡に別の寺が建立。この墓所は長く放置されてあったのを、後の小田原城主が北条氏追悼のため作り直したのだとか。それも関東大震災のとき埋没し、行方不明になっていたのを地元の有志の人たちが復興したのですね。
北条氏のとっては悲劇的な結末でしたが、新しい花が供えられ、今でも小田原の人たちから慕われているのがわかりました。
2016年6月17日