明智光秀の総本山、京都府亀岡市の亀山城跡。本能寺の変はここから始まった!
世紀の謀反人
日本史を揺るがす大事件として知られているのが「本能寺の変」です。戦国時代の世を治め、天下統一を目前にした織田信長を、重臣の明智光秀が京の本能寺で謀反を起こして殺したという、まさしく日本の歴史が動いた瞬間でした。もし信長がそのまま全国を統一していれば、現在の日本も違った形になっていたかも知れません。
しかし、明智光秀が天下を取ったのも束の間、やはり織田信長の重臣だった羽柴(豊臣)秀吉が「中国大返し」により天王山(現在の京都府と大阪府の境)で光秀と対決、秀吉が打ち破って明智光秀は「三日天下」に終わりました。
主君を裏切りながら、3日間(実際は13日間)しか天下を取れなかった男、明智光秀にはそんなマイナス・イメージが付きまといます。しかし、そんな明智光秀がヒーロー扱いされている場所があります。
それが京都府亀岡市です。明智光秀の本拠地であり、自らが築いた亀山城(現在は城跡)があります。地元の学校では明智光秀を英雄として教え、さらに市内では毎年5月3日に「亀岡光秀祭り」なるイベントが催されるそうです。他の土地から亀岡に移り住んだ人には、明智光秀に対するリスペクトぶりが理解できないんだとか(笑)。
亀岡市は京都市の北西部と隣接し、京都府では第三位の人口を誇る都市です。その基礎を築いたのですから、亀岡の人たちが明智光秀を英雄視するのもわかります。
現在の亀岡市中心部
本能寺へ出陣
明智光秀が亀山城を築城したのは1578年のことです。織田信長の命令により、丹波国(現:京都府)を攻略するために築きました。丹波国は都のある山城国(現:京都府)に隣接しているという、極めて重要な地だったのです。
4年後の1582年、明智光秀は織田信長の命を受けて、中国の備中国(現:岡山県)で毛利氏と戦っている羽柴秀吉の応援に行くはずでした。しかし6月1日、1万3千の兵を率いて亀山城から出陣した光秀は、丹波国と山城国の国境である沓掛で中国とは逆の東へ進み、信長のいる京の本能寺を目指しました。「敵は本能寺にあり!」ですね。翌2日に、光秀は信長打倒を果たしたのです
明智光秀は、亀山城で「本能寺の変」の作戦を練っていたのでしょう。歴史を変えた場所、それが亀山城だったのです。
現在の亀山城跡。「本能寺の変」で明智光秀は、亀山城から出陣した
明治時代、天守閣を解体
明智光秀の死後、豊臣秀吉そして徳川家康の天下になっても、亀山城の重要性は変わりませんでした。江戸時代には、5層の立派な天守閣が完成したと言います。
しかし、明治時代になると廃城令により、天守閣などは取り壊されました。その後、亀山城は荒れ果ててしまいましたが、宗教法人「大本」が城跡を買い取り、亀山城跡を整備しています。
天守閣などは無くなりましたが、石垣は残っています。亀山城跡は入場無料ですが、「大本」の敷地内なので城郭を見学するには受付での許可が必要です。
今でも石垣が残る亀山城跡
”亀山城”の由来
これまで何気に「亀岡市」「亀山城」と書いてきましたが、誤植ではありません。普通なら亀岡にあるのだから「亀岡城」になってしかるべきです。ではなぜ「亀山城」なのでしょう。
実は元々、この地は亀岡ではなく亀山という地名だったのです。しかし、伊勢国(現:三重県)にも亀山がありました。そこで明治新政府は混同を避けるために1969年(明治2年)、丹波国の亀山藩を亀岡藩と改称し、さらに1971年(明治4年)には廃藩置県により亀岡県となりました。もっとも、同年には京都府に編入され、亀岡県の命は僅か4ヵ月でしたが……。
したがって、三重県亀山市にある伊勢亀山城と区別するために、京都府の方は丹波亀山城とも呼ばれます。
丹波亀山城の晩秋
まだまだ魅力満載の亀岡
明智光秀が育んだ亀岡には、まだまだ魅力的な場所があります。有名なのが保津川下りで、特に晩秋は見頃でしょう。また、美しい紅葉を鑑賞できるトロッコ列車もあります。さらに数年後になりますが、サッカーJリーグの京都サンガF.C.が亀岡市に新スタジアムを建設して、京都市から本拠地移転する可能性が高くなっています。
保津川下りの乗船場近く。この付近が新スタジアム建設予定地
市の中心駅は亀岡駅で、亀山城跡へはここから徒歩約10分です。京都駅からJR嵯峨野線(山陰本線)の快速で約20分、普通電車でも約25分の距離です。
車で来られる方は、京都縦貫自動車道の亀岡ICで降りると、すぐ近くに国道9号線が通っており、亀山城跡はその付近です。
秋の行楽シーズン、明智光秀の郷・亀岡を訪ねてみませんか?
亀岡中心街にある、JRの亀岡駅
2016年11月18日