歴史ファン垂涎の観光スポットが目白押し 古代栃木県の県庁所在地・下野市と小山市を歩く
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当時のままの一里塚が見られる
今回は、栃木県の下野市と小山市を歩きます。下野市は「しもつけし」と読むらしい。昔、栃木県のあたりは下野国と言われました。栃木県の南部を流れる思川と姿川の近くにあるこの地域は、下野の国の政治・文化の中心だった場所です。
今は、「しもつけ風土記の丘」となっており、史跡が数多く残っているそうです。…と聞けば、歴史好きは行くしかありませぬ。
スタートは東北本線の小金井駅から。しばらく歩くと、一里塚がありました。
一里塚は、歴史の教科書にもありますが、1里(約4キロメートル)ごとに塚を築き、榎や松などを植えたもの。徳川家康が江戸日本橋を起点に、東海道・中山道及び北陸道につくらせ、後に全国に広まったと言われていますね。
ここ小金井一里塚は、江戸時代の五街道のひとつ、日光街道沿いに作られたものですな。都内にも一里塚が残っているところはありますが、二つの塚がほぼ当時のまま残っているのは珍しい。広い道路が別のところを通ったため、破壊されなかったそうです。日光道中で唯一国指定史跡に指定されているのも頷けました。
しばらく行くと、関東88か所霊場の20番目の慈眼寺があります。
このお寺は、1196年に上野の豪族新田義兼によって開基、その後、新田一族の祈願所として建立されたらしい。江戸時代、日光にお参りに行く将軍の休憩所になり、境内に御成り御殿があったそうですよ。
映画のワンシーンのような風景の「淡墨街道」
駅から風土記の丘へ行く道は誰も歩いておりませぬ。姿川の瀬音、見渡す限りの田んぼなど、雄大な風景に癒されます。
「淡墨街道」と書かれた標識柱の墨が淡くて見づらいのは、ジョークのひとつでしょうか。
写真のどこまでも続く道を歩いていくと、「しもつけ風土記の丘」があるのですよ。そこには、国分寺などの史跡があるのですが、とりあえず左折。栃木県最大の規模を誇る琵琶塚古墳と摩利支天古墳を見ようと考えたのです。
栃木県最大規模の前方後円墳、琵琶塚古墳
稲刈り後の田んぼの稲わらは子供たちが屈んでいるように見えますね。
さらに歩くと右手に小高い丘が見えてきました。
これは、全長123メートルもの前方後円墳、琵琶塚古墳。木が一部掘り出されて、墳丘の形がよくわかりますな。いくつかの溝は、発掘調査が行われているのだとわかりました。
近くで見ると、溝の中に土器の破片のようなものがあり、古墳の上に並べられていた埴輪の破片だとわかりました。 実際に土中に埋まっている埴輪の破片を見るのは初めてなので興奮します。
いつもなら、青いビニールシートがかけられていたかもしれませんが、訪れる見学者に、サービスで発掘の様子を見せてくれたのかもしれませぬ。最高の「お・も・て・な・し~♪」ですね。
関東地方最大級の大きさの鍋がある
二つの古墳を見学した後、天平の丘公園に向かいます。美しい自然林と貴重な史跡がある広々とした公園で、公園内には、明日香川という川が流れています。
「伝紫式部の墓」という表示板に驚いて立ち止まります。何で紫式部の墓が唐突に表れるのだろうと思い、眉にツバをつけながら行くと、大きな五輪塔があります。
これは鎌倉時代に作られたものではないですか。もちろん紫式部とは何の関係もないもので、昔、この場所が、村崎という地名から、紫、紫式部とこじつけたそうですね。
天平の丘公園には、古い民家を移築した民俗資料館、古墳、万葉植物園などがありました。 この大鍋は、なんと直径2.5メートルで、関東地方最大級の大きさらしい。
秋にはこの大鍋で、地元特産のかんぴょう入り芋汁3000食の芋煮会が行われるそうですよ。あまりにも大きく、伸び上がって撮影したのでした。
礎石だけでも一見の価値ある国分寺跡
次はいよいよ、国分寺と国分尼寺の見学。国分寺は、奈良時代に全国に作られたお寺ですな。実はここも、隣の町と合併する前は、国分寺町だったそうですね。 今はだだっ広い野原に石造りの基壇や礎石が残っているだけですが、東西413m、南北457mに及ぶ大寺院がありました。当時は、南大門や中門、金堂、講堂が一直線上に並び、回廊によって中門と金堂はつながれていたらしい。
全国の国分寺には、高い塔が建っていましたが、ここ下野国分寺の塔は、基壇の規模から七重塔であったと推定されています。
その高さは、現在の15~16階建てに相当する、約60m。当時の庶民は、竪穴住居に暮らしており、それぞれの県庁所在地に一つずつ、スカイツリーが立っているように感じたかもしれませぬ。
最近まで幻の寺だった国分尼寺
下野国分寺跡から東に600m離れた地点に国分尼寺があったそうです。昭和39年まで発見されなかったそうだから驚きです。 現在は、芝生の広場になっていますが、春には見事な薄墨桜が見られるそうですよ。
落城の影響が、今も地域の習慣として残る下野箕輪城
国道44号をテクテク歩き、再び姿川が見えたところで左折。
姿川に沿ってしばらく歩くと、小高い丘が見えてきます。姿川に対して垂直に切れ込むこの溝。
城好きがこれを見ると、ビビビとお城アンテナが反応するでしょうね。今は溝にしか見えませんが、場所といい長さといい、戦国時代の空堀の跡に違いありませぬ。かなりの距離を歩いて、ヘトヘトになりかけていたのですが、いきなり背筋が伸びるのが実感できました。
ここは下野箕輪城。箕輪城と言うと、日本100名城にもなっている群馬県高崎市の箕輪城が頭に浮かびます。戦国時代は長野業政、徳川四天王の一人・井伊直政の城として有名ですな。しかし、こちらの下野箕輪城はあまり知られておりませぬ。城の築かれた年代や城主についても、ほとんど文献史料がないため確かなことは不明だとか。でも、幻の城というのもまた、城好きにはいろいろ想像を膨らませることでロマンが広がるのですね。
土塁や空堀は、当時と比べると、かなり低くなったり、浅くなったりしているようですが、しっかりとその存在を確認することができました。本郭には、小さなお社があり、近くに城の解説板があります。
それによれば、城跡は、南北72m・東西90mの回字形の地形で、西南端には同じく土塁の跡を残しており山地築城と思われるとのこと。築城当時の国分寺一帯は、小山高朝の所有地であり、寛正3年(1462年)10月初めに箕輪城を築いたと言われているらしい。正式な記録はないそうですが、箕輪城の落城は、永禄元年(1558年)5月初めの頃。よって、この地域では、5月の節句には鯉のぼりを上げない習慣があるのですか。
もしこれが本当なら、450年以上前の落城の影響が今も続いていることになります。下野箕輪城の城主が、「のぼうの城」のように、住民たちから慕われていたのかもしれませんね。
2015年9月29日