蘇我氏の栄光と没落の時代!大阪・太子町の用明天皇陵と孝徳天皇陵
史跡と自然に恵まれた太子町
大阪府南東部にある太子町。かつては奈良県明日香村の”遠つ飛鳥”に対して”近つ飛鳥”と呼ばれ、飛鳥時代はこの2つの飛鳥が日本の中心地でした。
また、町名からもわかるように、聖徳太子(厩戸皇子)とは縁が深い場所です。前々回および前回は叡福寺と西方院にご案内しましたが、今回も太子町の史跡を探索しましょう。
さらに、太子町は史跡だけでなく、大阪とは思えないほど自然が豊かなので、歴史に興味がなくても散策にはもってこいです。春の時期だと、高校野球で有名な上宮太子高校(中学校と併設)の近くに、やや遅咲きの桜が多くあるので、そちらも楽しめます。
上宮太子高校の脇にある桜
聖徳太子の父・用明天皇
では、聖徳太子の墓所がある叡福寺からスタートしましょう。叡福寺を出て、目の前の道路を左へ行き、2つ目の信号を右折して道を入って行くと、木が生い茂った小高い丘が右側に見えてきました。ここが用明天皇陵です。
叡福寺の近くにある用明天皇陵
用明天皇は第31代天皇で、聖徳太子の父親です。在位中の大連(おおむらじ)は廃仏派(仏教を排除すること)の物部守屋、大臣(おおおみ)は崇仏派(仏教を広めること)の蘇我馬子で、2人は激しい権力争いをしていました。
最近の研究では、物部守屋も仏教を容認していたという説もあるのですが、蘇我馬子と政治的に対立していたことには変わりありません。用明天皇も大変な時代に在位していたものです。なお、用明天皇および息子の聖徳太子は崇仏派でした。
結局、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして、世の中は蘇我氏の天下となりました。そして用明天皇は、物部守屋が亡くなる3ヵ月前、587年に病気のため在位僅か2年足らずで崩御しています。
用明天皇陵を示す石碑
用明天皇陵は一辺約60mの方墳で、河内磯長原陵あるいは春日向山古墳とも呼ばれています。
用明天皇陵の最寄りのバス停は、金剛バスの春日口バス停です。この停留所に行くバスは、近鉄長野線の喜志駅あるいは近鉄南大阪線の上ノ太子駅から出ています。要領は叡福寺に行く場合と同じですので、詳しくはこちらの最後の項をご覧ください。
用明天皇陵の拝所
「大化の改新」を行った孝徳天皇
用明天皇陵から再び車道に出て、東の方向へ登り坂を歩いて行きます。距離はややありますが、六枚橋の交差点辺りから細い道の竹内街道を歩いて行くと、孝徳天皇陵があります。竹内街道というのは、日本最古の官道です。
孝徳天皇陵近くの竹内街道
孝徳天皇は第36代天皇で、即位したのは645年。この年号に覚えはありませんか?そう、大化の改新が行われた年です。
即位の2日前、孝徳天皇の甥にあたる中大兄皇子(後の天智天皇)と、中臣鎌足(後の藤原鎌足)が共謀して、政治の実権を握っていた蘇我入鹿(蘇我馬子の孫)を暗殺(乙巳の変)、翌日には入鹿の父である蘇我蝦夷が自害したため、蘇我氏の権力は失墜しました。
つまり、用明天皇の崩御直後に蘇我氏の権力が揺るぎないものとなり、孝徳天皇の即位前日に蘇我氏は失脚したことになります。それだけに、この2つの天皇陵は歴史的に大きな意味を持つのです。
即位した孝徳天皇は政治改革を行い、天皇中心の政治へ移行しました。これが大化の改新です。しかし、実際に改革を断行したのは中大兄皇子と中臣鎌足だったと言われています。
現在の元号は平成ですが、孝徳天皇の即位後に、我が国で初めて元号が制定されました。その時の元号が大化です。
孝徳天皇陵の入口
孝徳天皇陵は円墳で、大阪磯長陵もしくは山田上ノ山古墳とも呼ばれます。では、入口から参道をテクテク登って行きましょう。
やがて行き止まりになると、そこにあるのが孝徳天皇陵の拝所です。ただし、正面に回ることはできません。周りは鬱蒼とした森になっています。
孝徳天皇陵の拝所
孝徳天皇陵の最寄りのバス停は、金剛バスの六枚橋バス停です。バスの乗り方は、叡福寺や用明天皇陵に行く時と全く同じですので、こちらの最後の項を参照してください。
車で行く場合は、近くに「道の駅・近つ飛鳥の里・太子」があるので、そちらを利用すればいいでしょう。この道の駅は、他の太子町史跡巡りに利用するのにも便利です。また、中には休憩所があり、地元産の農産物やワインなども販売しています。
国道166号線沿いにある「道の駅・近つ飛鳥の里・太子」
さらに、すぐ近くには太子町立竹内街道歴史資料館があります。こちらにもぜひ寄ってください。入館料は一般200円、高校・大学生100円、小・中学生50円で開館時間は9:30~17:00(入館は16:30まで)、休館日は月・火曜日(祝日の場合は翌日)および12月26日~1月7日です。
竹内街道歴史資料館
2017年4月11日