大学、公園、古墳がリニューアルされてエリアの魅力もうなぎ上り 東京・三田、芝公園を歩く

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重要文化財の建物が二つもある慶応三田キャンパス

今回行ったのは、東京都港区の三田界隈。

先日、夜なべをして作った決算書を税務署に提出した後、久しぶりにこの近くを歩いてみることにしました。私にとって、近所のお散歩という感じですが、仕事モードからお散歩モードに切り替えると、なかなか見所は多いかもしれませんね。

さて、三田と言えば、全国的に有名なスポットがあるのでした。それは言うまでもなく、慶應義塾大学。慶應創立の地は、江戸築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内で、現在の聖路加国際病院の辺りだそうな。明治4年に、現在の三田へ移転してきたらしい。その前までこの土地は、島原藩の中屋敷があったところだとか。

個人的に、慶應には中学、高校時代を通じて何度か入ったことがあるのですよ。わりとノスタルジーを感じる場所かもしれませぬ。

…と見栄を張っても、当時は区立中や都立高校へ通っており、模擬試験の会場が三田キャンパスだったというだけですが…。しかも、慶應でうけた模擬テストの成績がいつも悪く、私にとっては鬼門の印象があったりします。

せっかく三田へ来たので、苦手意識を払拭すべく、しばらくぶりに入ってみることにしました。慶應の三田キャンパスも、ずいぶん変わりましたね~。かつて、というか今もあるのでしょうが、「幻の門」と言われていた裏門にビルが建っている。そこから入ると、ゲートの向こうには、慶應のシンボルとも言うべき、図書館旧館。

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シンボルだけあって、前には創立者の福沢諭吉の銅像がありました。

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1万円札でよくお見かけしますので、他人とは思えませぬ。できればもう少し、1万円札の福沢先生とはお近づきになりたいのですが…。

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それはともかく、図書館旧館は、慶應義塾創立50周年記念事業の一環として建設が計画され、約3年の歳月を費やし明治45(1912)年に竣工した建物らしい。ゴシック式洋風建築の壮麗な景観が、歴史と伝統を感じさせますね。

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しかし、慶應にはもっと古い建物があるのでした。それは、三田演説館。

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なんと、明治8(1875)年5月1日、日本最初の演説会堂として建造されたそうな。きっと福沢先生もここで演説されたのでしょう。どちらも、国の重要文化財なのですね。

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江戸時代の藩邸の遺構を探る

キャンパスの奥にあるこちらは、私が中学・高校のとき、模擬試験の会場としてお世話になった建物。何か、ノスタルジックな気分になりますね。

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この建物の入り口の掲示板に、大学の先生も、呼び出しの学生たちも「君」付けで記載されていました。たとえば、「○○君休講」とか。知らない人が見たら、誰が先生か、学生かわからなくなりそうですね。

知る人ぞ知る習わしですが、慶應では、先生は創立者たる福沢諭吉先生ひとりに限り、他の教職員はすべて「君」付けで呼ぶらしい。福沢先生からすれば、どの教職員も門下生。彼らの教え子は、福沢先生からすれば、孫弟子という発想なのですか。

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慶應独特の文化と言えるもので、三田会の団結力の強さを実感しました。

天邪鬼な私は、大学の施設ではなく、江戸時代の藩邸の遺構が残っているかどうかのほうが興味あったりして。…ということで、ぐるぐるまわって探してみたのですが、残念ながら確認はできませんでした。

この古びた赤レンガの塀は明治時代のものでしょうか。塀の向こうに広がる緑豊かな場所が気になりますが、イタリア大使館の敷地らしい。

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三田の学生が待ち合わせ場所にしている大銀杏は、たぶん藩邸時代のものとは違いますよね。

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慶應・三田キャンパスは芸術作品や文化財もいっぱい

ほかにも、キャンパスには芸術作品が多数あり、その中で代表的なのが、朝倉文夫の『平和来』という作品。旧図書館近くの庭園内にあり、戦没した塾員に捧げる像として、卒業生から寄贈されたそうです。

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新しくなった南校舎の下を通って正門へと向かいます。南校舎はなんと、外付けのエレベータまであるのですか。そういえば、正門からの景色も一新しましたね。ハイテクの殿堂みたいなイメージで。

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桜田通りを挟んだ南別館のアートスペースでは、「幕末を記録する二条家文書の世界」という企画展を見学。大河の「篤姫」を見ていたので、当時の貴族の視点から幕末のさまざまなイベントが浮き彫りになっていて興味深く拝見しました。

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解放的な都市公園に生まれ変わった芝公園

三田キャンパスを出て、桜田通りを北上すると、東京タワーが。

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東京の至る所からタワーを眺めることができますが、根っこから頂上まで写真に収められる場所はそう無いかもしれませぬ。青信号の横断歩道からしか撮影できないところも貴重ではないか、と。

桜田通りを右折し、日比谷通りに出てからまた北上します。高速道路の都心環状線の高架をくぐると左手に芝公園が見えてきました。

この辺りも、昔からよく知っていますが、景観は大きく変わりましたね。薄暗い林の中に神社が埋もれてあったような場所が、スカッと開放的な都市公園に生まれ変わったといいますか。

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広々とした芝生のスペース。リニューアルした後、最初に来たときは、こんなところに、広場などあっただろうかと思いました。

こちらの門は、重要文化財の旧台徳院霊廟惣門。

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台徳院霊廟は、二代将軍徳川秀忠の廟所のことで、昔はここに広大なスペースがあったらしい。ところが、昭和20年の東京大空襲でほとんどの施設が焼失してしまった。残された門のうち、惣門のみがこの場所に保存されたのですな。他の門は、埼玉の狭山不動寺へ移築されたそうですが、そういえば狭山で立派な門を見たような記憶がありました。

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それにしても、ここから見る東京タワーはいいですね。

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青々とした芝生越しに眺める東京タワーは新しい発見。絶景スポットがまたひとつ増えた感じがしました。

東京タワーの下に、東京で最大級の古墳がある

次に向かったのは、江戸や明治時代よりもっとさかのぼる遺跡。なんと古墳時代ですよ。しかも、全長100メートルを超える巨大古墳、芝丸山古墳です。

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声を大にして言いたい。東京でもっとも大きな古墳が、東京タワーの下にあるのですよ!!! 

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…といっても、知らない人が多いかも。昔、私の友人の何人かに聞いてみたことがあるのですが、誰も知りませんでした。歴史好きは、時として肩身が狭い思いをすることも少なくない。

だけど、それは無理ないかもしれませぬ。江戸時代の人たちも古墳には関心がなかったみたいで、当時は土取り場として削られたとか。

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明治31年に調査されたときには、墳頂部や後円部の一部は損失し、中央の埋葬施設も失われ、遺体や副葬品もなかった。それどころか、広場になっていて茶店もあったらしい。

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最近になって、古墳の周辺も大きく変わりましたね~。古墳の隣にあった、ゴルフ練習場やボーリング場が、高層タワーのホテルに…。

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久しぶりに古墳の上に登ってみました。この辺りは仕事でよく来るのですが、お散歩モードでなければなかなか上までは登らない。下の芝生広場には、お昼休みの時間に弁当を広げているサラリーマンやOLがいましたが、古墳上のベンチには一人しかいませんでした。

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もしかしたら、この辺りに勤めている人で、ここまで登ったことのない人は多いかも。勤続30年、同じ場所の会社に通勤しても、通勤経路以外は一切立ち寄らなかったという人を知っていますからね。

ただ、標高16メートルと言っても、サザエ堂みたいにぐるぐる回りながら上って行くので、結構歩くイメージはあります。昼休みに登山して疲れたら、午後の仕事に差し支えるのかもしれませぬ。

古墳の前方部には、「伊能忠敬測地遺功表」があります。

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忠敬の測量の起点が、芝公園の近くにある高輪の大木戸だったことから、東京地学協会が顕彰碑を建てたのですな。もっとも、少し離れている実感はありますが、日本全国を測量した忠敬の功績からすればその誤差は無きに等しいものなのでしょうね。

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かなり古墳は破壊されたと書きましたが、ちゃんと前方後円墳の括れが残っています。日頃から、山城の痕跡を何もないところから想像している私としては当時の姿をしっかりとイメージすることができました。

三代将軍手植えの神木がある芝東照宮

古墳の下にあるのが、芝東照宮。

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徳川家康が死去に際して、以前、自らの姿を刻ませた木造の徳川家康坐像を祀る社殿を、増上寺に建造するよう遺言したらしい。その社殿が、芝東照宮の起源になるそうな。

境内には、徳川家光が植樹したと伝えられる大イチョウの神木がありました。

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昔と比べると、多くの人たちが参拝に訪れているように見えるのは、公園のリニューアルのおかげかもしれませんね。

2015年11月26日

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